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蔡 琰(さい えん、177年(熹平6年)? - 249年(嘉平元年)?後述))は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての詩人。字は文姫、元々の字は昭姫(後述)。兗州陳留郡圉県(現在の河南省杞県)の出身。父は蔡邕。晋の将羊祜は甥か子〔陳仲奇『蔡琰晚年事跡献疑』(『文学遺産』1984年第4期)記載〕。才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った。 == 生涯 == 南朝宋の范曄編纂の『後漢書』列女伝は次のように記す。 蔡琰は河東郡の衛仲道の妻となる〔魏丁廙作『蔡伯喈女賦』では婚姻時16歳、明張瑞図編『日記故事大全』巻2では15歳〕が、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。興平年間(194年-195年)、董卓の残党によって乱が起こると、蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致され、南匈奴の劉豹に側室として留め置かれた。匈奴に12年住む間に劉豹の子を2人をもうけた。建安12年(207年)、父と親交のあった曹操が蔡邕の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡琰を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離の苦痛を詩に述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところ、蔡琰は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔡エン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cai Wenji 」があります。 スポンサード リンク
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