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蔡萬植(チェ・マンシク、1902年7月21日 - 1950年6月11日)は朝鮮の小説家。号は采翁、白菱。本貫は平康蔡。風刺小説家と評される。自由主義、理想主義を求めた蔡の作品は韓国文学に輝く大きな星であり、代表作『濁流』は1930年代の社会相を集約した傑作である。 == 経歴 == 1902年、全羅北道沃溝郡(現在の群山市)臨陂面邑内里に5人兄弟の末子として生まれる。父、蔡圭燮は村の豪農。蔡家は代々の豪農であったが、次兄の蔡俊植が金鉱に手をつけて家が傾いていったという。京城の中央高等学校を卒業した後、渡日し、早稲田大学英文科で学んだ。留学時代はサッカーの選手として活動もしていた。1924年、『朝鮮文壇』12月号に短編「新しい途へ」が推薦されて文壇にデビューする。その後、『東光』『彗星』『新東亜』などに作品を発表していく。蔡は片意地なところがあり、同僚から距離を置かれ1930年代初め頃は孤独な状態にあった。その頃、KAPF(朝鮮プロレタリア芸術家同盟)の同伴作家として執筆をしていたが、社会主義思想体系を持ち合わせていた、というよりは、人情的な作家であった。 1936年、それまで勤めていた朝鮮日報を辞める。一度、開城で金鉱をやっていた次兄のところに身を寄せるが、再び京城に戻り、1939年に『濁流』を書き、『朝鮮日報』に連載した。風刺と冷笑、憎まれ口と挫折感が敷き詰められ、陰険な落とし穴と詐欺と殺人が入りくみ絡みあう『濁流』は1930年代の社会相を集約した傑作である。 蔡の鋭い風刺は『濁流』をピークにして、日本帝国主義に屈したかのように見える。論文「文学と全体主義」(1941年)、随筆「鴻大なる聖恩」(1943年)、視察記『間島行』(1943年)、などと、『毎日申報』(1944年10月~1945年5月)に連載した長編「女人戦記」は誰の眼にも日帝の「聖戦新体制」に同調したものだった。この『女人戦記』を最後に、蔡は故郷の沃溝に戻り、一時、筆を絶った。麻雀に打ち込み鬱憤を晴らしながら暮らしているうちに1945年8月15日の開放を迎えた。 次兄は金鉱事業に失敗し、蔡は肺結核を患っていた。そんな中で再び創作への意欲が沸き起こり、りんごの空箱を机代わりにして執筆活動を再開する。この頃書かれた『民族の罪人』は対日協力に対する自己批判の小説として知られている。そうしてその印税で家を買うまでになった。しかし、解放直後の物不足のときに、肺結核の薬代に莫大な費用がかかり、さらに4番目の息子、永焄がパラチフスにかかる。息子の看病で蔡自身の病状までも悪化し、治療費を捻出するため家を売った。 1950年6月11日、自宅にて息を引き取る。死後は蔡の希望通り、棺に花を敷き詰め、火葬された。遺骸は全羅北道沃溝郡臨陂面鷲山里にある墓地に埋葬された。1959年、蔡の親友であった李無影が蔡萬植の墓前に碑文を建てた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔡萬植」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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