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蔵玉錦 敏正(ざおうにしき としまさ、1952年9月3日 - )は、山形県山形市香澄町出身で、1970年代後半から1980年代前半にかけて活躍した大相撲力士。鏡山部屋(入門時は伊勢ノ海部屋)に所属していた。本名は安達 敏正(あだち としまさ)。現役時代の体格は183cm、141kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は西前頭筆頭(1981年1月場所)。 現在は、年寄・武隈を名乗り、時津風部屋付きの親方として後進を指導している。 == 来歴・人物 == 兄2人、妹1人の4人兄妹の三男として生まれた。小学校4年生の頃から体がどんどん大きくなり、スポーツも万能で陸上、柔道、水泳が特に好きだった。高校野球の名門である日本大学山形高等学校に在学中は学業面でも英語や数学が得意であり、日本大学工学部への推薦入学も内定していた。 しかしこの頃、創設間近だった元横綱・柏戸の鏡山部屋の庄内後援会会員で土地相撲でも活躍する知人に見出されて、勧誘された。勉強は得意でも好きではなかったため、この勧誘を受け入れて高校を中退し、上京。鏡山親方の内弟子として伊勢ノ海部屋に入門し、1970年9月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名の「安達」。 同期生には、後の横綱・千代の富士、前頭・王湖(後に世話人)、十両・牛若丸などがいた。 翌11月場所前、鏡山部屋の創設とともに同部屋に移籍。1975年7月場所、同部屋の後輩・小沼と同時に新十両に昇進し、鏡山部屋初の関取として話題となった。 1976年9月場所では10勝5敗と大勝ちして十両優勝を遂げ、これを手土産に、翌11月場所で新入幕。 2桁黒星で十両陥落を3度繰り返し、1978年1月場所より故郷の名山・蔵王山に因んだ「蔵玉錦」の四股名に改めた。画数が悪いので「王」を「玉」に変えたが〔横綱・玉錦にあやかったともされている。〕、これを「ざおうにしき」と読むのに違和感を受ける声も多く、問い合わせが殺到したという。新入幕から3年半ほど経過した1979年3月場所から幕内に定着した。 1981年9月場所では、北の湖より初金星を挙げる活躍をするも負け越し、三役昇進にはあと一歩及ばなかった。なお、大関戦では3勝(貴ノ花に2勝、増位山に1勝)している。貴ノ花の現役最後の一番となった一戦(1981年1月場所6日目)では、一気の押しで勝利しており、対戦成績は2勝2敗の五分であった。しかしそれ以降は、幕内下位から十両で取ることが増えていった。 十両下位で大敗し幕下落ちが決定的となった1983年1月場所を以って30歳で引退し、借株で年寄・立川を襲名。 協会内では主に指導普及部や巡業部での職務に当たったほか、立川時代の1994年1月場所後には審判委員に就任し、1年間のみ経験している〔1998年に年寄名跡の保有者が公開されるようになって以降、公式に借株とされている親方が審判委員となることはなくなった。〕。2003年から借株の年寄は主任以上に昇格できなくなったため、委員から平年寄に降格となった。 2013年12月に61歳で武隈を取得し、合計7株・30年11ヶ月に亘る借株生活に別れを告げた〔元幕内・蔵玉錦が武隈へ スポーツ報知 2013年12月25日〕。借株だったため、平年寄の職位に10年据え置かれていたが、2014年4月3日の協会職務分掌では指導普及部主任に昇格、さらに2015年1月29日には同じ部署で委員に復帰した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔵玉錦敏正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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