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蔵間 竜也(くらま たつや、1952年12月16日 - 1995年1月26日)は、滋賀県野洲郡野洲町(野洲市)出身で時津風部屋所属の大相撲力士・タレント。最高位は西関脇(1978年(昭和53年)5月場所)。身長188cm、体重140kg。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。タレントでは本名の蔵間 龍也で活動し、浅井企画に所属していた。妻は女優の渡辺やよい。 == 来歴 == === 大相撲時代 === 野洲中学校、八幡工業高校時代は柔道・水泳・ラグビーなどで活躍。とりわけ柔道に関しては嗜み程度の稽古で2段という大変な才能の持ち主であった。講道館の支部長が当時の時津風親方(元横綱・双葉山)と知り合いだった縁で、高校を中退し時津風部屋に入門、1968年(昭和43年)9月場所で初土俵を踏んだ。当人は「双葉山最後の弟子」と称していた。 新入幕の頃は、期待の新鋭だった。相撲好きだった昭和天皇も目をかけていた一人で、天覧相撲の時、説明役についた春日野理事長(元横綱・栃錦)に「蔵間はどうなの?」と尋ね、春日野は「あれは大関になります」と答えた。 左四つに組んでからの吊り寄り、右からの上手投げを得意とし、横綱・北の湖には17戦全敗と一度も勝てなかったが常に長い相撲で苦しめ、千代の富士(のち、横綱)には新大関に昇進した場所で勝っている。しかし、攻めの遅い取り口と執念に欠ける性格のため、上位陣との取組で得意の型となって善戦はしても大きく勝ち越すことがなく「善戦マン」と呼ばれた。腰痛の持病を抱えていたことも大成を阻んだといえる。1978年(昭和53年)1月場所での10勝が最高で、あとはいわゆる「エレベーター力士」に終始した。 春日野の言葉をのちのちまで覚えていた昭和天皇もこれを歯がゆがったか、「蔵間、大関にならないね」とこぼした。春日野は「私は陛下に嘘を申し上げました」と言って謝罪し、その後当人を理事長室へ呼んで叱責したという。 全盛期には若三杉(後の横綱・2代目若乃花)と女性の人気を二分した。私生活も派手で大関の望みが消えてからは横綱・輪島を意識してリンカーン・コンチネンタルを乗り回し、千葉県市川市には蔵間御殿を建て夫人には女優の渡辺やよいを迎えた。 21年間の現役生活中、ずっと本名の「蔵間」で取った(ただし、名前に関しては龍也→龍矢→龍也→豹牙→竜也と改名している)が、一度故郷の三上山の異名である「近江富士」への改名が持ち上がった。しかし、ちょうど同じ頃その三上山で深刻な害虫災害が発生、縁起が悪いということで立ち消えになった。なお、甲賀郡信楽町(現・甲賀市)出身の三杉里が新入幕を果たした1988年(昭和63年)5月場所で蔵間も再入幕しており、この場所のみ滋賀県出身幕内力士が複数存在した(蔵間引退後には彦根市出身、かつ時津風部屋の後輩に当たる蒼樹山が入幕し、三杉里と合わせ複数となった場所がある)。 長身で美形でもあって、人気力士だった。「大器」としては物足りなかったが、強力なタニマチを持ち横綱大関を諦めてからは平幕中位に腰を据え(時折小結には顔を出した)、長く活躍を続ける蔵間のような生き方は多くの力士の憧れであった。 1989年(平成元年)の9月場所前の健康診断で、慢性骨髄性白血病と判明(なお当時公式には脾腫による1か月の加療と発表されていた)。9月場所限りで現役を引退し年寄・錣山を襲名したが、病気のため1990年(平成2年)6月に廃業し、協会から去った。現役時代から、JR総武線・都営新宿線本八幡駅前で「相撲茶屋・蔵間」を経営していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔵間竜也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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