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正風俳諧(しょうふうはいかい)とは、松尾芭蕉が大成した俳諧の概念をさすことばである。 もともとは、天文9年(1540年)の秋、荒木田守武が俳諧式目の制定と同時に初めて名付けたことばである。しかし、俳諧という、自然と人生に基礎を置く民衆的な文学を、形式・内容共に純芸術と完成せしめたのは松尾芭蕉であり、芭蕉が主体たる蕉門俳諧は芭蕉自身諸国を行脚し、深く自然と人生に思いを秘め「正風」を弘めたことから、芭蕉の俳諧を指すことばとして用いられるようになり、蕉風俳諧とも書かれるようにもなった。 「正風俳諧は万葉集の心なり。されば貴となく賎となく味うべき道なり。」とは芭蕉不滅の名言である。 18世紀後半の天明期に、与謝蕪村は、あくまでも正風の真髄を護持しながらも、用語を広く自由に、近代的な感覚、即ち真実を踏まえての自然への感動と、生活への感動とを盛り上げ偉大なる「革新」を図った。 だが、20世紀初頭の明治期に至って、正岡子規をはじめとする、松瀬青々、河東碧梧桐、内藤鳴雪、高浜虚子たちは新聞『日本』に拠って、新派ホトトギスなる結社をおこし、正風打倒を目標としたため、それ以後の俳句は、必ずしも正風を継承しているとはいえなくなっている。 == 「蕉風発祥之地」碑 == 愛知県名古屋市中区錦三丁目の名古屋テレビ塔前には「蕉風発祥之地」碑が建立されている。貞享元年(1664年)、松尾芭蕉は名古屋城下で俳諧興行を行ったとされ、蕉風を確立したとされる『冬の日』に採録されている句はその時詠まれたものである。「蕉風発祥之地」碑は、この俳諧興行の行われた地に建てられている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正風俳諧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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