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芷江作戦(しこうさくせん)とは、日中戦争中の1945年4月から6月の間に行われた、湖南省西部・芷江への日本軍の進攻作戦である。中国側の呼称は湘西会戦。 1944年に実施した大陸打通作戦において、日本軍は連合国軍の飛行場の制圧による制空権奪取と日本本土空襲の阻止を目標のひとつとしていた。大陸打通作戦の結果、日本軍は各地の連合国軍飛行場の占領には成功したものの、連合国側はさらに奥地の湖北省老河口や湖南省芷江付近などにも飛行場を整備し、航空作戦を継続できた。そのため、日本軍は、再び飛行場の制圧を目的とした老河口作戦と芷江作戦を実施することにした。芷江作戦では湖南-広西間の鉄道の確保も目的とされた。 1945年4月から、日本軍は第20軍(坂西一良中将)を投じて芷江作戦を開始した。序盤は順調に進撃できたものの、まもなく連合国側の激しい反撃が始まり、4月25日頃には前進困難となった。中国軍の装備はアメリカからの兵器供与により以前よりも改善されており、またアメリカ陸軍航空軍による支援爆撃や航空輸送も十分に受けることができたためである。中国軍は次々と増援部隊を集結させ、第3方面軍・第4方面軍・第10方面軍などの計28個師団で迎撃していた。険しい地形も防衛戦に適していた。他方、日本側は太平洋方面への戦力抽出で部隊の質がかなり低下していたうえ、制空権を失っているために昼間行動は困難、兵站線も空襲で寸断された。 5月9日、日本側の総指揮を執る支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は、作戦の中止を決断した。日本軍は撤退を開始し、連合国軍は追撃に移った。各地で包囲を受けた日本軍は損害が続出し、各部隊の戦死傷は2万8000人に達していたが、撤退の決断が手遅れになる前に出されていたおかげで、かろうじて脱出に成功した。6月上旬までに日本軍は出撃地点へと帰還した。 日本軍はこれ以後、終戦まで中国戦線で攻勢を行うことは無く、これが最後の攻勢作戦となった。 ==参考文献== * 防衛庁防衛研修所戦史室 『昭和二十年の支那派遣軍(2)終戦まで』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1973年。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シ江作戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of West Hunan 」があります。 スポンサード リンク
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