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蕭 巋(しょう き)は、南朝後梁の第2代皇帝。諡号は明皇帝で、明帝と呼ばれる。 == 生涯 == 大定18年(562年)、父宣帝の崩御により皇位を継ぐ。後梁は事実上北周の傀儡政権であり、北周とともに南朝の陳と対峙した。 天保16年(577年)に北周が北斉を滅ぼした際には、自ら北周の都長安に出向いて当時の皇帝たる武帝(宇文邕)に祝賀の言葉を述べた。このふたりの皇帝はほぼ同年代であった。その際、武帝は明帝の優美な立ち居振る舞いに魅せられ、一方の明帝は武帝に後梁建国以来の恩義を語り、ふたりはともに涙ぐんだ。明帝が後梁に帰る際には、武帝自らが琵琶を弾いて盛大に見送り、2人で軽口を叩き合った。このように個人的にも親密な関係を築いていったから、明帝は傀儡政権の皇帝という不安定な立場ではあるものの、北周と友好的な関係を築くことに成功した。その結果、北周は後梁の都江陵に駐在させていた将軍を引き上げさせ、後梁の自治が回復された。 その後、宗主国が北周から隋へと変わった後もその親密な関係は続き、明帝が再び長安を訪れた際には、隋の文帝(楊堅)は自ら明帝の手を取り「必ず梁の旧地を取り戻して送り届ける」と言ったと伝えられる。また、明帝の娘は楊堅の次男の楊広(後の煬帝)に嫁ぎ、楊広が皇帝に即位した際には皇后となっている(煬愍蕭皇后)。 このような安定した政権の下、江陵では梁から受け継いだ文化が花開いた。また、明帝自身も学才があり、『孝経』、『周易義記』、『大小乗幽微』などを著した。 天保24年(585年)に崩御。息子の蕭琮が帝位を嗣いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭キ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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