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蕭允(しょう いん、生没年不詳)は、南朝梁から陳にかけての人物。字は叔佐。本貫は蘭陵郡。 == 経歴 == 梁の都官尚書の蕭介の三男として生まれた。梁の邵陵王法曹参軍を初任とし、湘東王主簿に転じ、太子洗馬となった。侯景が建康を陥落させたとき、梁の官僚たちは逃げ散ったが、蕭允はひとり衣冠を整えて宮坊に座り込んでいたため、侯景の部下たちもかれの身に危害を加えることがなかった。まもなく蕭允は京口に移り、戦乱を避けて隠棲した。 侯景の乱の平定後、陳霸先は南徐州に駐屯し、書状を蕭允のもとに送って召しだそうとしたが、蕭允は病を理由に固辞した。陳の永定年間、侯安都が南徐州刺史となると、蕭允のために廬を建てて敬意を示した。天嘉年間、蕭允は文帝に召されて太子庶子となり、稜威将軍・丹陽尹丞に転じた。564年(天嘉5年)、侍中を兼ね、北周に対する使者をつとめた。帰国すると中書侍郎・大匠卿に任じられた。 569年(太建元年)、宣帝が即位すると、蕭允は黄門侍郎に転じた。574年(太建6年)、晋安王陳伯恭が南豫州刺史となると、蕭允はその下で長史をつとめた。陳伯恭はまだ幼少であったため、南豫州の行政事務は蕭允が代行した。後に入朝して光禄卿となった。582年(太建14年)、陳伯恭が湘州刺史となると、蕭允は再び召されて湘州におもむいた。 585年(至徳3年)、中衛豫章王長史に任じられた。通直散騎常侍・光勝将軍・司徒左長史・安徳宮少府を歴任した。586年(至徳4年)、鄱陽王陳伯山が東揚州刺史となると、蕭允はその下で長史となり、会稽郡丞を兼ねた。この年のうちに光禄大夫の位を受けた。 589年(禎明3年)、隋が陳を滅ぼすと、蕭允は関中に移された。長安に入った陳の朝士の多くが隋の任官を受けたが、蕭允は謝伷とともに老病を理由に受けなかった。まもなく長安で病没した。享年は84。 弟に蕭引があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭允」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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