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蕭合卓(しょう ごうたく、? - 1025年)は、遼(契丹)の政治家。字は合魯隠。契丹突呂不部の出身。 == 経歴 == はじめ突呂不部の吏となった。統和初年、南院侍郎に任じられた。18年(1000年)、北院枢密使韓徳譲の推薦を受けて中丞となった。28年(1010年)2月、皇太后の命を受けて北宋に使いした。帰国すると、北院枢密副使となった。開泰3年(1014年)、左夷離畢となった。 合卓は聖宗の側近にいることが長く、典故に明るく、よく助言をおこなった。5年(1016年)4月、北院枢密使に上った。6年(1017年)、合卓が都統となり、王継忠を副都統とし、蕭屈烈を都監として、高麗の興化軍を攻撃したが、勝利できなかった。帰国すると、任用を求める人が門前に列をなしたが、合卓は生活ぶりを変えようとしなかった。聖宗はかれの清廉ぶりを知って、皇族の娘を合卓の子の妻とした。 太平5年(1025年)、合卓は病の床についた。聖宗がかれを見舞おうとしたが、合卓は見苦しいところを見せたくないと言って固辞した。12月、北府宰相の蕭朴が見舞いに訪れると、合卓はその手を取って、「わたしが死ねば、君は必ず枢密使となろう。自分を越える者を登用してはならない」と遺言した。その日のうちに合卓は死去した。 子の蕭烏古は、突呂不部節度使となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭合卓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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