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蕭孝先(しょう こうせん、生没年不詳)は、遼(契丹)の外戚。字は延寧。小字は海里。欽哀蕭皇后の弟にあたる。 == 経歴 == 蕭陶瑰の子として生まれた。統和18年(1000年)、祗候郎君に補任された。南陽公主(耶律崔八)を妻に迎え、駙馬都尉に任じられた。 開泰5年(1016年)、国舅詳穏となった。兵を率いて東辺に築城した。帰還すると、南京統軍使となった。太平3年(1023年)、漢人行宮都部署となり、まもなく太子太傅の位を加えられた。5年(1025年)12月、上京留守に転じた。母の老年を理由にそば仕えを求めると、再び国舅詳穏となった。東京留守に転じた。9年(1029年)、大延琳の乱が起こると、捕らえられて監禁された。10年(1030年)、妹とともに地に穴を掘って逃亡した。乱が平定されると、再び上京留守となった。11年(1031年)、聖宗が病に倒れると、欽哀蕭皇后は孝先を召し出して禁衛の事を総べさせた。 聖宗が死去して興宗が即位すると、欽哀太后は仁徳蕭皇后や蕭鋤不里・蕭匹敵らを殺害したが、孝先は欽哀太后の陰謀に協力するところ大であった。欽哀蕭皇后が摂政となると、孝先は天平軍節度使に遙任され、守司徒を加えられ、政事令を兼ねた。重熙元年(1032年)、楚王に封じられた。2年(1033年)、枢密使となった。3年(1034年)、欽哀太后が孝先とともに廃立を計画した。興宗がこれを察知すると、衛兵を率いて宮殿を出て孝先を召し出し、欽哀太后を廃位する内意を伝えた。孝先は体を震わせて答えることができなかった。欽哀太后は慶州に身柄を移され、孝先は鬱々として楽しまなかった。4年(1035年)、晋王に徙封された。6年(1037年)、南京留守となり、死去した。諡は忠粛といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭孝先」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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