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蕭孝穆(しょう こうぼく、? - 1043年)は、遼(契丹)の外戚。小字は胡独菫。欽哀蕭皇后の弟にあたる。 == 経歴 == 国舅詳穏の蕭陶瑰の子として生まれた。統和28年(1010年)、西北路招討都監に累進した。開泰元年(1012年)、建雄軍節度使に遙任され、検校太保の位を加えられた。この年、朮烈らの反乱が起こると、孝穆は反乱軍を撃破した。冬、可敦城に進軍した。阻卜が5群の牧長の查剌・阿睹らと結んで起兵を図ると、孝穆はかれらをことごとく殺害し、かれらの仲間を壊滅させた。功績により九水諸部安撫使に転じた。2年(1013年)12月、西北路招討使となった。3年(1014年)4月、北府宰相に任じられ、忠穆熙霸功臣の称号を賜り、検校太師・同政事門下平章事の位を加えられた。 太平2年(1022年)、知枢密院事となり、漢人行宮都部署をつとめた。3年(1023年)、燕王に封じられ、南京留守・兵馬都総管となった。8年(1028年)、拒馬河の北宋との国境に戍長を置いて巡察させるように上奏し、容れられた。9年(1029年)、大延琳が東京遼陽府で反乱を起こすと、孝穆は都統として大延琳を討ち、蒲水で戦った。孝穆の中軍がやや後退したところを、副部署の蕭匹敵と都監の蕭蒲奴が両翼から挟撃して、反乱軍を撃破し、手山の北まで追撃した。10年(1030年)、大延琳が遼陽城に逃げ込んで籠城すると、孝穆はこれを包囲し、重城を築いて内外の交通を遮断した。楊詳世らが大延琳を捕らえて降伏し、大延琳の乱は鎮圧された。孝穆は東平王に封じられ、東京留守に転じ、佐国功臣の称号を賜った。 11年(1031年)、興宗が即位すると、孝穆は秦王に徙封され、再び南京留守となった。重熙6年(1037年)、呉国王に進み、北院枢密使に任じられた。8年(1039年)、領内の戸籍を整備して徭役の負担を公平化するよう上奏した。9年(1040年)、楚王に徙封された。興宗は国力の充実をみて南征の軍を起こそうと考え、群臣にも賛同する者が多かった。孝穆は太祖や太宗の南征が失敗に終わっている前例を挙げ、国力は富強でも勲臣宿将の多くは物故しており、北宋との盟約を破棄する口実もないと言って反対した。12年(1043年)1月、南院枢密使となった。6月、再び北院枢密使となり、斉王に徙封された。10月、死去した。大丞相・晋国王の位を追贈され、諡は貞といった。 孝穆は外戚として高位にあったが、驕った態度を見せず、推薦した人物はみな忠実な人物であった。「国宝臣」と称され、著に『宝老集』があった。弟の蕭孝先・蕭孝忠・蕭孝友も名が知られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭孝穆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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