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蕭宝寅(蕭寶夤、蕭寶寅、しょう ほういん、483年以後〔同母兄の蕭宝巻は、483年に生まれた。〕 - 530年)は、南朝斉の皇族。字は智亮。明帝蕭鸞の六男。建安王、ついで鄱陽王。北魏に亡命して斉王に封ぜられ、軍人として活躍した。その後、関中で反乱を起こして斉の皇帝を自称したが、北魏の追討を受けて敗死した。 == 経歴 == 494年(建武元年)、父の明帝が即位すると、宝寅は建安王に封じられた。495年(建武2年)、北中郎将となり、琅邪城に駐屯した。496年(建武3年)1月、持節・都督江州軍事・南中郎将・江州刺史として出向した。498年(永泰元年)、兄の東昏侯蕭宝巻が即位すると、宝寅は使持節・都督郢司二州軍事・征虜将軍・郢州刺史に任じられた。まもなく前将軍の号を受けた。500年(永元2年)、建康に召還されて撫軍となり、領石頭戍事とされたが、赴任しなかった。501年(永元3年)1月、車騎将軍・開府儀同三司となり、石頭に駐屯した。 7月、雍州刺史の張欣泰や前南譙郡太守の王霊秀らが起兵して、宝寅を奉じて台城に向かった。杜姥宅まで進軍したが、城門は閉ざされており、城壁の上から射かけられると、反乱兵は宝寅を捨てて逃走した。宝寅は3日間の逃亡の後に捕らえられて、東昏侯に面会すると、泣いて謝罪して罪を許された。9月、使持節・都督荊益寧雍梁南北秦七州軍事・荊州刺史に任じられた。 さかのぼって同年(中興元年)3月、蕭衍により和帝が江陵で擁立されており、この江陵の朝廷からは、宝寅は使持節・都督南徐兗二州軍事・衛将軍・南徐州刺史に任じられていた。12月、蕭衍により建康城が陥落すると、宝寅は鄱陽王に改封された。502年(斉の中興2年、北魏の景明3年)3月、北魏に亡命した。閏4月、宣武帝に面会し、洛陽に邸宅と衣冠車馬を与えられた。 この年の冬、南朝梁の江州刺史の陳伯之やその長史の褚冑らが寿春で北魏に帰順した。宣武帝は宝寅や陳伯之の懇請を容れて、南征を決断した。503年(景明4年)、宝寅は使持節・都督東揚南徐兗三州諸軍事・鎮東将軍・東揚州刺史に任じられ、丹陽郡開国公・斉王に封じられた。1万の兵を与えられて、南征の途につき、東城に向かった。504年(正始元年)、宝寅の軍は汝陰に到達したが、東城がすでに陥落していたため、寿春の栖賢寺にとどまった。梁の将軍の姜慶真が北進し、寿春の外郭を落として拠っていた。宝寅はこれを攻撃したが、味方が少勢だったために勝てず、金城に撤退した。再び相国東門に出て奮戦し、姜慶真を撃破した。この寿春の戦いにおいて、宝寅の武功は北魏の諸軍中で第一と評価された。7月、洛陽に帰ると、梁郡開国公に改封された。 506年(正始3年)、中山王元英が南征すると、宝寅は上表して従軍を求めた。使持節・鎮東将軍となり、羽林虎賁500人を与えられ、別将として元英の後詰めとなった。元英とともに梁軍を連破し、勝利に乗じて鍾離を攻撃した。507年(正始4年)、鍾離の戦いに敗れ、宝寅は元英とともに撤退した。宝寅が東橋の守りを固めなかったことが敗因と報告され、極刑に処すよう宣告されたが、宣武帝は一命を赦して、官爵の剥奪にとどめた。まもなく宝寅は南陽長公主を妻に迎えたが、互いに礼を尽くし、夫婦の関係が良好なことで知られた。 511年(永平4年)、梁の馬仙琕・張稷らが朐山戍を攻撃すると、北魏の徐州刺史の盧昶は洛陽に救援を求めた。宝寅は使持節・仮安南将軍となり、別将として朐山の救援に向かった。朐山の戦いは北魏側の敗北に終わり、盧昶は単騎で逃亡したが、宝寅は部隊をまとめて帰投した。 512年(延昌元年)、安東将軍・瀛州刺史に任じられ、再び斉王に封じられた。515年(延昌4年)、撫軍将軍・冀州刺史に転じた。大乗の乱が起こると、宝寅は軍を派遣して反乱軍を攻撃したが、たびたび敗れた。洛陽から征北大将軍の元遥率いる援軍が到着すると、ようやく反乱を鎮圧することができた。孝明帝が即位し、霊太后が臨朝称制すると、宝寅は洛陽に帰還した。 梁の将軍の康絢が浮山堰を築いて淮水をせきとめ、寿陽を水攻めにしようとした。宝寅は使持節・都督東討諸軍事・鎮東将軍として康絢を討つべく南征の途についた。まもなく梁郡開国公に封じられ、済州の濮陽に寄食した。516年(熙平元年)、梁軍が堰を完成させると、淮水が氾濫をはじめて、寿陽に危機が迫った。宝寅は淮水の上流をせきとめ、さらに新渠を掘ることで、寿陽に注ぐ水を減らした。宝寅は軽車将軍の劉智文と虎威将軍の劉延宗を派遣して、夜間に淮水を渡らせ、梁側の3塁を焼き討ちした。劉智文らは梁の直閤将軍の王升明を斬って帰還した。梁の将軍の垣孟孫・張僧副らが水軍3000を率いて、淮水を渡り、北岸にいた統軍の呂叵を攻撃した。宝寅は府司馬の元達や統軍の魏続年らを派遣して救援し、垣孟孫らを敗走させた。 このころ、梁の武帝蕭衍は宝寅に宛てた親書を送り、帰順を呼びかけた。宝寅は蕭衍に国を滅ぼされ、兄弟を殺された恨みを忘れておらず、怒りの言を吐きながら洛陽の朝廷に報告した。孝明帝は宝寅を左光禄大夫・殿中尚書に任じた。宝寅は軍主の周恭叔に数百の兵を与えて、夜間に淮水を南に渡らせ、梁の徐州刺史の張豹子らの11営を焼き討ちさせた。宝寅は洛陽に帰還し、使持節・散騎常侍・都督荊□東洛三州諸軍事・衛将軍・荊州刺史に任じられた。赴任しないうちに、再び殿中尚書となった。神亀年間、都督徐南兗二州諸軍事・車騎将軍・徐州刺史として出向した。清東に学館を建て、現地の子弟に儒学教育を推奨し、政治に精励した。 521年(正光2年)、洛陽に召還されて、車騎大将軍・尚書左僕射となった。523年(正光4年)、人事の考課方法について上表した。また梁の西豊侯蕭正徳が降伏してきたことについて、かれを信用しないよう進言した。 524年(正光5年)、梁の将軍の裴邃・虞鴻らが寿春に進攻してくると、宝寅は使持節・散騎常侍・車騎大将軍・都督徐州東道諸軍事となり、北魏の諸将を率いて救援に向かった。到着する前に、揚州刺史の長孫稚が裴邃の軍を破り、虞鴻を斬って、梁軍を撃退していたため、宝寅が戦場に出る場面はなかった。 ときに秦州で莫折念生が反乱を起こして天子を自称した。その弟の莫折天生が隴東に進出し、元志・裴芬之らを破って、岐州を占領した。宝寅は開府西道行台となり、大都督としてこの反乱を討つべく西征した。宝寅は大都督の崔延伯とともに進軍し、525年(孝昌元年)1月に雍州の黒水で莫折天生を攻撃して大勝した。小隴まで追撃したが、莫折天生には隴西に逃げ込まれた。526年(孝昌2年)4月、宝寅は侍中・驃騎大将軍・儀同三司・仮大将軍・尚書令に任じられた。9月、莫折念生が降伏を申し入れてきたため、宝寅は行台左丞の崔士和を派遣して秦州を占拠させた。まもなく莫折念生は再び叛き、崔士和は殺害された。 527年(孝昌3年)1月、司空公に任じられた。宝寅は涇州で反乱軍に大敗を喫し、多くの兵を失って、長安に帰還した。御史は宝寅を死罪に処すよう宣告したが、孝明帝は宝寅の一命を赦して官爵を剥奪し、民とした。4月、宝寅は使持節・都督雍涇岐南豳四州諸軍事・征西将軍・雍州刺史に任じられた。仮の車騎大将軍・開府西討大都督となり、潼関以西の諸軍を統制した。9月、莫折念生が部下の杜粲に殺害され、杜粲は秦州を挙げて宝寅に降伏した。10月、宝寅は散騎常侍・車騎将軍・尚書令に任じられ、再び斉王に封じられた。 ときに宝寅は連年の出征で莫大な軍費を消耗していたが、涇州の敗戦以来、朝廷の猜疑を受けるようになり、御史中尉の酈道元が関中大使として派遣された。10月、部下に不安を煽られた宝寅は、酈道元が陰盤駅まで来たところを、ひそかに派遣した郭子恢らに攻め殺させ、遺体を回収して反乱軍に殺されたものとして公表した。さらに都督の南平王元仲冏を殺害した。この月のうちに帝を称し、国号を斉とし、隆緒元年と元号を建てた。郭子恢を東方に派遣して潼関を攻めさせ、行台の張始栄に華州刺史の崔襲を包囲させた。孝明帝は尚書僕射・行台の長孫稚を派遣して宝寅の反乱を討たせることとした。また北地郡の毛鴻賓とその兄の毛遐が郷党を糾合して、宝寅を討つべく起兵した。宝寅は大将軍盧祖遷らを派遣して毛遐を攻撃させたが、毛遐に殺害された。また将軍の侯終徳を派遣して毛遐を攻めさせた。528年(武泰元年)1月、郭子恢が潼関で長孫稚に敗れた。また長孫稚の子の長孫子彦が張始栄を華州で撃破した。士気を挫かれた侯終徳は官軍に寝返り、取って返して宝寅を討とうと図った。侯終徳の軍が白門にいたって、宝寅はようやく寝返りに気づき、侯終徳と交戦したが、敗北した。宝寅は南陽公主と三男の蕭凱を連れて長安を脱出し、渭橋を渡って、寧夷巴の張宕昌・劉興周を頼った。まもなく万俟醜奴に帰順し、その下で太傅をつとめた。 530年(永安3年)4月、都督の爾朱天光が賀抜岳らを派遣して、安定で万俟醜奴を破り、万俟醜奴と宝寅を追って捕らえ、その身柄を洛陽に送った。閶闔門外の街中に3日のあいだ晒された。吏部尚書の李神儁や黄門侍郎の高道穆が宝寅の旧功を孝荘帝に訴えて、一命を赦すよう願い出たが、帝は王道習の言を聞き入れて、宝寅を処刑した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭宝寅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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