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蕭惟信(しょう いしん、生没年不詳)は、遼(契丹)の政治家。字は耶寧。契丹楮特部の出身。 == 経歴 == 蕭高八の子として生まれた。沈着剛毅な気性で、志を立てて学問し、弁論を得意とした。重熙初年に初めて出仕し、左中丞に累進した。15年(1046年)、燕趙国王耶律洪基の傅に転じ、洪基の教導にあたった。17年(1048年)、北院枢密副使となった。18年(1049年)、北宋に対する使者をつとめ、西夏を攻撃することを告げた。後に事件に連座して免官された。まもなく復職して、北面林牙を兼ねた。 清寧9年(1063年)、耶律重元が反乱を起こして灤河の行宮を攻撃すると、惟信は耶律仁先の下で重元の軍を撃破した。太子太傅の位を加えられ、竭忠定乱功臣の称号を賜った。南京留守として出向した。咸雍元年(1065年)に左夷離畢となり、2年(1066年)に南院枢密使に上った。5年(1069年)、知北院枢密使事に転じた。7年(1071年)、南府宰相・契丹行宮都部署となった。太康年間、老年のため引退を願い出たが、聞き入れられなかった。3年(1077年)、枢密使の耶律乙辛が皇太子耶律濬を誣告して廃位させると、朝廷の内外では冤罪と知りながら、あえて発言する者もなかった。ひとり惟信のみが数度にわたって争ったが、太子を復位させることはできなかった。守司徒の位を加えられて引退し、死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭惟信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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