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蕭承之[しょう しょうし] 蕭承之(しょう しょうし、384年 - 447年)は、南朝斉の高帝蕭道成の父。字は嗣伯。 == 経歴 == 前漢の相国蕭何の子孫と称した蕭楽子の子として生まれた。東晋の建威府参軍を初任とした。413年(義熙9年)、後蜀の譙縦が滅ぼされると、承之は揚武将軍・安固汶山二郡太守に任じられた。 宋の元嘉初年、威烈将軍・済南郡太守となった。430年(元嘉7年)、宋の到彦之らが北伐して敗れると、北魏軍は勝利に乗じて青州の諸郡国を攻略した。北魏の安平公乙旃眷が済南郡に侵攻してくると、承之は数百人を率いて抗戦した。魏軍が大挙して集結すると、承之は郡城の城門を開かせて空城計を採った。魏軍は伏兵を疑って退去した。431年(元嘉8年)、檀道済が寿張で転戦して軍を返すと、滑台が陥落した。青州刺史の蕭思話は檀道済の撤退を知ると、承之に青州の州治(東陽城)を任せて守らせようとしたが、承之は強く諫めて従わなかった。思話は州治を失陥して敗走した。兖州刺史の竺霊秀が敗戦の罪を問われて退任したため、文帝は承之が済南郡を防衛した功績を認めて、兖州刺史に任じようとした。承之が敗戦の最中の功に理由がないと辞退したため、沙汰やみとなった。輔国鎮北中兵参軍・員外郎に転じた。 433年(元嘉10年)、蕭思話が梁州刺史となると、承之はその下で横野府司馬・漢中郡太守となった。仇池の楊難当が漢川に進攻してくると、前任の梁州刺史の甄法護が梁州の城を放棄して敗走し、蕭思話は襄陽にとどまって進まなかった。434年(元嘉11年)、承之は軽装の兵を率いて先行し、仇池の魏興郡太守の薛健を黄金山に攻撃して撃破した。仇池の梁秦二州刺史の趙温が梁州の州城を占拠していたが、承之がやってきたと知ると小城に退いて拠り、薛健は下桃城に駐屯して、承之と2里をへだてて対峙した。薛健と仇池の馮翊郡太守の蒲早子が出撃してきたが、承之はかれらを撃退した。蕭思話が後詰めにやってくると、仇池軍は後退した。承之は峨公山に進軍し、仇池の左衛将軍の呂平に包囲を受けたが、蕭汪之・段虯らの援軍を受けると、呂平を撃破した。楊難当が息和に1万人あまりを与えて趙温の援軍として派遣すると、漢水をはさんで両岸で宋軍と仇池軍が対峙した。仇池軍はみな犀甲を着て、刀や矢で傷を負わせることができなかったため、承之は自軍に命じて槊の長さを数尺に切り詰めさせ、大斧や搥をその後ろにつけさせた。仇池軍は承之の戦術に敗れて、陣営に火をかけて撤退した。承之は南城まで追撃して、連戦連勝し、梁州を平定した。龍驤将軍の号を受けた。蕭思話が寧朔将軍となると、承之はその下で寧朔司馬となった。 後に入朝して太子屯騎校尉となった。承之は政権を握った彭城王劉義康と合わず、江夏王司徒中兵参軍・龍驤将軍・南泰山太守として転出させられた。晋興県五等男に封じられた。447年(元嘉24年)、死去した。享年は64。478年(昇明2年)、散騎常侍・金紫光禄大夫の位を追贈された。479年(建元元年)、斉が建国されると、宣皇帝と追尊された。万安陵に葬られた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭承之」の詳細全文を読む
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