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蕭 淵藻(しょう えんそう、483年 - 549年)は、南朝梁の皇族。字は靖芸。小名は迦葉。『梁書』と『南史』は、李淵の諱を避けて、名を藻と表記している。 == 経歴 == 蕭衍の長兄蕭懿の子として生まれた。斉の永元初年、著作佐郎を初任とした。天監元年(502年)、梁が建国されると、西昌県侯に封じられた。持節・都督益寧二州諸軍事・冠軍将軍・益州刺史として出向した。ときに益州の民の焦僧護が数万の人々を集めて、郫繁を拠点に反乱を起こした。淵藻は幕僚を集めて自ら反乱を撃とうした。ある人が止めようとしたが、淵藻は激怒して反対者を階のそばで斬った。肩輿に乗って反乱軍の城塁に向けて進軍した。反乱軍の弓が乱射され、矢が雨のようにそそいだが、淵藻は従者の掲げた楯をどかせて顔を見せ、味方の士気を高めた。反乱軍は夜間に逃走を図ったが、淵藻は騎兵に追撃させ、数千人を斬首して反乱を鎮圧した。信威将軍に進んだ。9年(510年)、召還されて太子中庶子となった。10年(511年)、左驍騎将軍・南琅邪郡太守に転じた。入朝して侍中の位を受けた。 11年(512年)、使持節・都督雍梁秦三州竟陵随二郡諸軍事・仁威将軍・寧蛮校尉・雍州刺史として出向した。12年(513年)、使持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・兗州刺史に転じた。召還されて太子詹事となった。普通3年(522年)、領軍将軍の位を受け、侍中を加えられた。6年(525年)、軍師将軍となり、西豊侯蕭正徳とともに北伐して渦陽を攻撃した。軍を帰すと、弾劾を受けて免官され封爵を剥奪された。7年(526年)、宗正卿として再起した。8年(527年)、封爵をもどされ、左衛将軍の位を受けて、歩兵校尉を兼ねた。大通元年(527年)、侍中・中護軍に転じた。渦陽が梁に降ると、淵藻は使持節・北討都督・征北大将軍となって、渦陽に駐屯した。3年(529年)、中権将軍・金紫光禄大夫の位を受けた。中大通元年(529年)、中権将軍のまま護軍将軍となった。3年(531年)、中軍将軍・太子詹事となり、丹陽尹として出向した。入朝して安左将軍・尚書左僕射に任じられ、固辞したが、許されなかった。大同5年(539年)、中衛将軍・開府儀同三司・中書令に転じた。使持節・南徐州刺史として出向した。 侯景の乱が起こると、淵藻は長子の蕭彧を援軍に向かわせた。建康城が陥落すると、散騎常侍・大将軍の位を加えられた。侯景は淵藻に代えて蕭邕を京口に駐屯させようとした。このとき淵藻は病の床にあった。ある人が東魏に亡命するよう勧めると、淵藻は「国の高位にあって、逆賊を誅することができないなら、朝廷とともに死ぬべきである。異類に身をやつして、余生を保つことができようか」と言って連日食事を摂らなかった。太清3年(549年)、死去した。享年は67。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭淵藻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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