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蕭荘 : ウィキペディア日本語版
蕭荘[しょう そう]

蕭 荘(しょう そう)は、南朝の第7代(最後の)皇帝。ただし、梁はその前に陳によって簒奪されたため、梁の皇帝の代数には数えられないことが多い。蕭荘が復興した梁は南梁と通称されている。南梁は陳によって滅ぼされたため、蕭荘には皇帝としての廟号諡号もなく、史書では王号を採って「永嘉王」と呼ばれる。
== 生涯 ==
元帝の長男蕭方等の子。承聖3年(554年)に西魏江陵を攻撃し、元帝を殺害した際、当時7歳の蕭荘は民家に隠れて難を逃れた。後に王琳に発見され、都建康へと送られた。叔父の敬帝が即位した後、蕭荘は人質として北斉に送られている。
太平2年(557年)、陳霸先が敬帝から禅譲を受けてを建国し、本来の梁は滅亡した(ただし、西魏の傀儡国家である後梁は存続している)。王琳は梁の復興を図り、北斉に対し蕭荘の帰還を要求する。北斉から帰還した蕭荘は郢州において王琳らにより皇帝に擁立され、長江上中流域を拠点と定めた(南梁)。その後、蕭荘の南梁と陳霸先のは数度にわたる戦火を交えることとなった。
天啓3年(560年)、南梁の王琳と陳の侯瑱蕪湖で交戦した際、この機に乗じて北周が郢州を攻撃、王琳は敗れ、蕭荘も北斉へと亡命を余儀なくされる。南朝正統を自称する陳に対抗すべく、北斉は蕭荘を梁王に封じ、梁朝復興に支援を行うが、北斉の滅亡により実現することはなかった。後に北斉の後主高緯が北周によって殺されたことを聞いた蕭荘は、痛憤のあまりにて死去したという。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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