|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 薔薇 : [ばら] 1. (gikun) (n) (uk) rose ・ 薇 : [ぜんまい] (n) royal fern ・ 刑 : [けい] 1. (n,n-suf,vs) penalty 2. sentence 3. punishment
『薔薇刑』(ばらけい)とは、写真家・細江英公撮影による、三島由紀夫を被写体とした裸体写真集。「序曲」「市民的日常生活」「哂う時計あるいは怠惰な証人」「さまざまな瀆聖」「薔薇刑」の5章から成り、96枚の写真が収められている〔「細江英公序説」(細江英公写真集『薔薇刑』集英社、1963年3月)。〕〔鈴木晴夫「薔薇刑」()〕。合成技術と様々な道具立てによる幻想的・耽美的な側面と、オブジェとしての肉体に焦点を当てるという側面とを兼ね備えた作品で、頁をめくるうちに、「ある漠然としたストーリー」が見る者に想起されるように構成されている〔倉林靖「『薔薇刑』」()〕。1963年(昭和38年)3月25日に集英社より刊行され、「日本写真批評家協会」作家賞を受賞。超現実的でマゾヒスティックな構図の数々の写真が載ったこの奇書は、国内だけでなく海外でも大きな話題を呼んだ〔「写真集『薔薇刑』のモデルをつとめて――ぷらす・まいなす’63」(読売新聞夕刊 1963年12月28日号)。〕。 == 作品成立・背景 == 三島由紀夫は、細江英公が1961年(昭和36年)に刊行した写真集『おとこと女』(舞踏家・土方巽を撮影したもの)を見て絶賛し、三島自身の評論集『美の襲撃』(1961年11月)の口絵写真か表紙を、講談社の編集者・川島勝を通じて細江英公に依頼することにした〔「『薔薇刑』体験記」(芸術生活 1963年7月号)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年4月)、〕〔「本の美学」()〕〔。川島に連れられて細江が助手の森山大道と共に9月13日に三島邸を訪問した際、裸で日光浴をしていた三島が慌てて服を着ようとすると、細江がそのままでいいと言いながら、ゴムホースを探してきて三島を撮影したことが、写真集へのきっかけとなった〔〔「年譜 昭和36年9月13日」()〕。三島は、ゴムホースを巻かれて撮影された時のことを以下のように語っている〔。 このような経緯で、1961年(昭和36年)9月13日から約半年間にわたり十数回ほどの撮影を重ねて、『薔薇刑』刊行に至った〔。三島は、「細江氏のカメラの前では、私は自分の精神や心理が少しも必要とされてゐないことを知つた。それは心の躍るやうな経験であり、私がいつも待ちこがれてゐた状況であつた」と語っている〔。 撮影場所は、おもに東京都大田区南馬込の三島邸で、その他目黒区の舞踏家土方巽の稽古場「アスベスト館」や、江東区亀戸の廃工場跡、港区青山教会跡地の建築工事現場など。協力モデルは土方巽と女優の江波杏子、土方夫人の。三島は自邸での撮影に際し、「家族の教育上よくない」との理由により、瑤子夫人と長女の紀子(当時2歳)を、文京区目白台にある夫人の実家に里帰りさせていた〔細江英公「写真集『薔薇刑』にまつわる二、三のエピソード」(月報)〕〔〔「第四章 著名人の時代」()〕。そして家族の写真は一切撮影を許さなかったという〔。 亀戸の廃工場跡の一角で人目を避けて撮影していた時、三島は褌だけ、江波杏子は下半身がジーンズで、上半身はブラジャーだけの姿であったが、あれこれとポーズを取っていると突然、「ヒャー、いいぞ! いいぞ!」と囃し立てる喚声が上がり、びっくりして見上げると、隣の工場の二階の窓から鈴なりの人々が見ていたという〔。三島は、「身の置き処を失つた。むかうはエロ映画でも撮つてゐると思つたにちがひない」と羞恥体験を語っている〔。 モデルの奇怪なポーズのアイデアはほとんど細江英公によるものであったが、細江はモデルとしての三島について、「三島さんは映画にもお出になったが、俳優というよりもすばらしいモデルです。そのままでいて下さいといえば、一分間ぐらいはまばたきもしない。こんな人はいません、日本一のモデルですよ」と述べている〔。三島は写真集の意義について以下のように語っている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薔薇刑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|