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薔薇戦争 : ミニ英和和英辞書
薔薇戦争[ばらせんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

薔薇 : [ばら]
  1. (gikun) (n) (uk) rose 
: [ぜんまい]
 (n) royal fern
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

薔薇戦争 : ウィキペディア日本語版
薔薇戦争[ばらせんそう]

薔薇戦争(ばらせんそう、)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱1455年5月にヨーク公リチャードヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年テューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある〔)、プランタジネット家傍流のランカスター家ヨーク家の間で戦われた権力闘争である。ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く家柄であった。
ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を(記章)〔としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる〔。
1422年、フランス王に対する勝利を重ね百年戦争における優位を確立したヘンリー5世が死去し、生後9ヵ月のヘンリー6世がイングランド王に即位した。1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃マーガレット・オブ・アンジューサマセット公エドムンド・ボーフォートをはじめとする国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードを中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった〔対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。青山他(1991),p.418-419.〕。両派は対立を深め、1455年第1次セント・オールバーンズの戦いで両派間に火蓋が切られた。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。
勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃のランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると1459年に戦いが再開した。1460年ノーサンプトンの戦いでヨーク派が勝利してヘンリー6世を捕らえ、ヨーク公は王位を目前にするものの、スコットランドの援助を受けたマーガレット王妃の反撃を受けてウェイクフィールドの戦いで戦死した。1461年、マーガレット王妃はウォリック伯リチャード・ネヴィルを破ってヘンリー6世を奪回するが、ロンドンの占領に失敗する。ヨーク公の嫡男エドワードがウォリック伯と合流してロンドンに入城し、新国王エドワード4世に推戴された。タウトンの戦いでヨーク派が大勝し内戦の勝敗は決した。1465年にはヘンリー6世も捕らえられ、幽閉されている。(第一次内乱
王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は身分違いのエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したこと、そして外交政策の意見の相違からウォリック伯の反逆を招いた。1469年にウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージとともに反乱を起こしてエドワード4世を一時屈服させるが、翌1470年にエドワード4世が両人を反逆者と宣告すると国外逃亡を余儀なくされた。
ウォリック伯は宿敵であったマーガレット王妃と和解してランカスター派と手を結び、イングランドに上陸してエドワード4世を国外に追いやり、ヘンリー6世を復位させた。だが、エドワード4世はブルゴーニュ公の援助を受けて、翌1471年にイングランドへ攻め入り、バーネットの戦いでウォリック伯を敗死させ、さらにテュークスベリーの戦いでランカスター軍を打ち破ってマーガレット王妃を捕らえた。ヘンリー6世とエドワード王子は殺害され、ランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされた。(第二次内乱
1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱
ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として即位するとエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解し、新たにテューダー朝が開かれた。
==名称とシンボル==

薔薇戦争の名称は、2つの王家の(記章)〔紋章ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。森(2000),p.274.〕である、に由来するものである〔森(2000),p.274.〕。もっとも、ランカスター家の赤薔薇の使用は戦争最末期である〔指(2002),p.39;ワイズ(2001),p.5.〕。この名称は19世紀の小説家ウォルター・スコットの『ガイアスタインのアン』(''Anne of Geierstein'')以降に広く用いられるようになった〔指(2002),p.39;ワイズ(2001),p.5;森(2000),pp.275-276;青山(1991),p.447.〕。
当時ののもと、この戦争に参加した者たちの多くが、直接仕えるまたは庇護者となっている諸侯のバッジがあしらわれた「お仕着せ」(そろいの制服:''livery badge'')を着用していた〔Weir(1998), pp.9–10.〕。例えば、ボズワースの戦いではヘンリー・テューダーの軍勢は「赤い竜」の旗の下で戦い〔指(2002),p.45.〕、ヨーク軍はリチャード3世のバッジである「」を用いていた〔森(2000),p.307.〕。戦後、ヘンリー7世は赤薔薇と白薔薇を合わせて、ヨーク家とランカスター家の融合の象徴としたテューダー・ローズのバッジを用いた〔森(2000),p.322,326.〕。
ライバル両家の名称は、おのおのヨークランカスターの町に由来するが、両勢力の支持基盤とはほとんど関係がない〔ワイズ(2001),p.5.〕。ヨーク家はミッドランド(イングランド中部)とウェールズ境界地方(ウェールズ・マーチ)〔青山他(1991),p.445,466.〕に勢力をはり、家門名のヨークシャーではランカスター家が優勢だった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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