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薛シュク : ウィキペディア日本語版
薛シュク[せつ しゅく]

薛琡(せつ しゅく、生没年不詳)は、北魏末から東魏にかけての官僚は曇珍。本姓は叱干氏。本貫河南郡
== 経歴 ==
薛虎子の子として生まれた。容貌魁偉で、若くして有能で知られ、典客令として任用された。正光年間、洛陽県令を代行した。後に吏部に転じた。ときに吏部尚書の崔亮が人材の賢愚を問わず、年功によって選官の基準とする「停年格」の制度を立てるよう奏上した。薛琡はこれに反対する上書をおこなったが、聞き入れられなかった。
529年永安2年)、元天穆邢杲の乱を討つにあたって、薛琡はその下で行台尚書となった。薛琡は邢杲よりも先に酇城に拠る元顥を討つように勧めたが、元天穆は聞き入れなかった。元天穆が邢杲を降して帰途につくと、元顥が洛陽を占領していた。元天穆は薛琡の言を容れなかったことを悔やんだ。
東魏の天平初年、高歓に召されて丞相長史となった。537年(天平4年)、高歓が西魏を討つべく、蒲津で黄河を渡ろうとした。薛琡は兵を諸道に置いて交通を遮断し、野戦を避ければ、食糧難に苦しむ西魏は降伏せざるをえなくなると主張して、渡河を引き止めようとした。高歓は聞き入れず、沙苑の戦いに敗れた。
武定末年、儀同三司・尚書右僕射に上った。後に死去した。青州刺史の位を追贈された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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