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薛修義 : ウィキペディア日本語版
薛修義[せつ しゅうぎ]
薛修義(せつ しゅうぎ、478年 - 554年)は、中国東魏の軍人。は公譲。本貫河東郡汾陰県
== 経歴 ==
北魏定陽郡太守の薛宝集の子として生まれた。若い頃は義侠を重んじ、難を逃れてきた人々を多くかくまった。北魏の咸陽王元禧司州牧となると、法曹従事として任用された。北海王元顥徐州に駐屯すると、墨曹参軍として召された。正光末年に六鎮の乱が起こり、元顥が征西将軍となると、修義は統軍となった。ときに3000人の兵を徴募した者を別将として任用するとの詔が出ると、修義は河東郡に帰って、平陽弘農の諸郡をめぐり、7000人あまりを集めた。仮の安北将軍となり、西道別将となった。東夏州西夏州南華州北華州豳州などで乱が起こると、元顥がこれを討伐した。修義は部下を率いて乱の平定に参加し、功績を挙げた。絳蜀の陳双熾らが汾曲で人々を集めて乱を起こすと、修義は大都督となり、行台の長孫稚とともにこれを討った。修義は陳双熾に利害を説いて、降伏させた。修義は龍門鎮将となった。
後に修義の一族の鳳賢らが乱を起こし、鎮城を囲んだ。修義は鳳賢らの乱に参加し、黄鉞大将軍を号した。しかし間もなく後悔して、部下の孫懐彦を派遣して上表し、孝明帝が西北道大行台の胡元吉を送ってくると、修義は降伏した。鳳賢らは長孫稚や珍孫らと対峙していたが、修義が信書を送って禍福を説くと、鳳賢は降伏した。鳳賢は龍驤将軍・夏陽県子となり、修義は汾陰県侯に封じられた。
修義は爾朱栄に警戒されて、晋陽に送られ、高昂らとともに拘禁された。洛陽に移送され、家畜を管理する役所に身柄を置かれた。530年、爾朱栄が殺害されると、孝荘帝により修義は弘農河北河東正平四郡大都督に任じられた。ときに高歓晋州刺史となると、修義と面会し、すこぶる厚遇した。爾朱兆が長広王元曄を擁立すると、修義は右将軍陝州刺史に任じられ、仮の安南将軍となった。531年節閔帝が立つと、修義は持節・後将軍南汾州刺史となった。
高歓が信都で起兵し、532年に爾朱氏を韓陵で破ると、修義は高歓に召し出されて、晋陽に至り、行并州事を務めた。高歓の下で爾朱兆と戦った。534年孝武帝関中に入ると、修義は関右行台となって、龍門から黄河を渡った。西魏の北華州刺史の薛崇礼が楊氏壁に駐屯したとき、修義は信書を送ってこれを説得し、このため薛崇礼は1万人あまりを率いて東魏に降った。樊子鵠兗州で乱を起こすと、修義は大司馬の婁昭の下でこれを撃破した。天平年間、衛将軍・南中郎将に任ぜられ、汲郡太守・頓丘淮陽東郡黎陽五郡都督を兼ねた。東徐州にうつった。
538年、儀同に任ぜられた。沙苑の戦いでは、東魏の諸軍に従って退却した。行晋州事の封祖業が城を棄てて逃亡すると、修義は洪洞まで追いかけ、封祖業を説得したが、封祖業は聞き入れなかった。修義は晋州に帰り、防備にあたった。西魏の儀同の長孫子彦が晋州城下に迫ると、修義は城門を開いたまま甲士を伏せて待機したところ、長孫子彦はその虚実を測ることができず、そのまま退却した。高歓は修義の守城の功績を賞して、晋州刺史・南汾東雍陝四州行台とした。修義は晋州にあって、西魏の正平郡太守の段栄顕を捕らえた。胡の首長の胡垂黎らの部落を説得して降し、上表してその地に五城郡を置かせた。543年高仲密が乱を起こすと、修義は西南道行台となり、有利な態勢を作ったが、進軍しなかった。間もなく斉州刺史に任ぜられたが、不正な蓄財のために官爵を奪われた。かつての晋州を守った功績により、官爵を復し、衛尉卿に任ぜられた。山胡が晋州を侵すと、修義が追討にあたり、これを撃破した。正平郡公に進み、開府を加えられた。高澄は高歓の遺言を受けて、修義の本封を二百戸減らし、平郷男の別封を与えた。550年北斉が建国されると護軍に任じられ、藍田県公の別封を受け、また太子太保に任ぜられた。554年7月、77歳で死去した。晋太華三州諸軍事・司空・晋州刺史の位を追贈された。子の薛文殊が後を嗣いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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