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薛調[せつちょう]
薛調(せつちょう、太和4年(基督教暦830年。下皆效此) - 咸通13年(872年))は晩唐の進士。河中宝鼎(ほうてい。現中華人民共和国山西省万栄県)の人。憲宗朝の御史大夫で河東郡公に封じられた苹(へい)の孫で婺州の刺史膺(よう)の男〔『新唐書』巻73下、宰相世系表3下。〕。 宣宗の大中8年(854年)頃の進士登第と推定され〔黒田真美子『枕中記・李娃伝・鶯鶯伝他』(中国古典小説選5)「無双伝」余説、明治書院、2006年。孟二冬『登科記考補正』巻22に拠るという。〕、同期登第者である李瓚(りさん)(の男)と並称され、俊爽ではあるが猜疑心の強かった瓚が「剣」と呼ばれたのに対して、調は姿貌が美しく性格も寛恕であった為に「生菩薩」と呼ばれたといい、その人柄から劉允章(りゅういんしょう)に好まれ、また、翰林学士となった際にはがその容姿を賞して懿宗に「駙馬(ふば)(の容姿)も調には及ばない」と言ったという〔『』巻4「容止」。魯迅『唐宋伝奇集』附載「稗辺小綴」第4分に拠る。〕(駙馬とは公主の婿)。 官歴は詳らかでないが、懿宗の咸通元年(860年)5月当時ににして内供奉であった事〔司馬光「唐紀」66(『資治通鑑』巻250)咸通元年5月壬申(23日)条。〕、同11年(870年)に戸部員外郎(こぶいんがいろう)(戸部の判官)から駕部郎中(がぶろうちゅう)(兵部の判官)へ調されて更に翰林学士の承旨(しょうし)を充てられ、その翌12年には知制誥に至った事、翌々13年2月26日に43歳で暴卒して戸部侍郎を追贈された事が知られている〔王前掲書。『翰苑群書(かんえんぐんしょ)』巻6「承旨学士壁記」。〕。『無双伝』の著作があってその中に仮死の秘薬が登場するのでそうした事に関心があると考えられたものか〔黒田前掲余説。〕、世間では鴆(ちん)に中(あた)ったものと噂されたというが〔王前掲書。鴆は毒鳥であるがここでは毒物一般を指したものと思われる(増子和男「唐代傳奇「無雙傳」に關する一考察(下)」『中国詩文論叢』 23号(中國詩文研究會、2004年)所収(早稲田大学リポジトリ )。〕、上記郭妃の感想も影響してその美貌を嫉んだ何者かに依って毒殺された疑いもある〔李劍國「無雙傳」『唐五代志怪傳奇叙録』(第2刷版)第3巻所収、南開大學出版社、1998年。〕。 == 脚注 ==
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