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薩埵 正邦(さった まさくに、1856年6月21日(安政3年5月19日) - 1897年(明治30年)6月14日)は、日本の法学者、教育者。法政大学創立者の一人。東京法学校(現法政大学)主幹。第三高等学校(現京都大学)法学部教授。草創期の東京法学校の運営に尽力した後、京都大学法学部の源流となる第三高等中学校法学部の開設当初から指導にあたった。京都府出身。 == 人物 == 京都で石門心学を講ずる学者の家に生まれる。 記憶力に優れ、近隣の人をして神童と称されたと言う〔篠田正作『知識進歩立志之友』中村芳松、1892年〕。才能を見込まれ、学資の援助を受けながら〔「某氏君ノ才ヲ愛シ資ヲ助ケ」たと記されている(『法学協会雑誌』15巻8号859頁)が、「某氏」については不明である。〕、官立の京都仏学校に入学。京都仏学校が廃止されて、師であるレオン・デュリーが開成学校(現在の東京大学)へ転任すると、それに従い上京する。 上京後に当時太政官法制局少書記官だった桜井能監らの「仏国民法研究会」のメンバーとなり、その縁で官職を得る。内務省に勤務していた1879年8月に、日本政府の法律顧問としてフランスから招かれていたパリ大学教授ボアソナードと出会い、以後ボアソナードに師事する。 東京法学社設立に加わり、東京法学社講法局が1881年5月に東京法学校として独立した後は、薩埵がその主幹となり学校の運営を担った。愛弟子の薩埵が主幹する学校ということでボアソナードが教壇に立ち、教頭に就任するなどしたことから、東京法学校はボアソナードの学校と呼ばれ人気を得た。 フランス法系の学校の団結・統合を図るために、東京法学校と東京仏学校とが合併するのを機に、薩埵は故郷の京都に戻り、第三高等中学校(現在の京都大学)法学部の教授となった。第三高等学校への昇格後も法学部教授の任にあたっていたが、京都帝国大学法科大学が設置されるのを目前にして、病気により在官中40歳の若さで急逝した。部長として指導していた三高弁論部の部史には、薩埵について次のように記されている。「日本法学教育界の錚々、その議論の暢達明快、誠に此部好個の指導者」〔安藤勝一郎編『三高等学校弁論部部史』三高等学校弁論部、1935年、8頁〕と。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薩た正邦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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