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琉球征伐(りゅうきゅうせいばつ)は、薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)に対する軍事行動を指す。 名称については、一次史料「肝付兼篤書状」には琉球国御征伐と明記されている。また「琉球入ノ記」という二次史料が存在するほか、一次史料「琉球渡海日々記」には琉球入番衆主取なる役名が見られる。本項では琉球入りという呼称に対する批判〔高良倉吉『琉球王国の構造』吉川公文館、1987年、ISBN 9784642026536 pp.234〕を尊重し琉球征伐を用いる。琉球側の史料『中山世鑑』には己酉の乱と呼されている〔『琉球国中山世鑑』巻之二 〕。なお、戦前よりの日本史学上での用語としては、征縄役が使われる場合が多かった〔国土交通省 奄美群島の概要 〕。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、戦闘はほとんど起こらなかった〔『琉球国由来記』「西来禅院記」〕〔「喜安日記 」〕〔「球陽附巻」12号〕。 == 原因 == 1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山は最後までこれに応じなかった。1608年9月には、家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名利山は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに使僧を辱めた〔「南聘紀考」〕。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。 このため、本事件の根本的原因については謝名の人格的要因のため〔とされている。 もっとも、16世紀の後半に戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求して、琉球側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり〔上原兼吾「琉球貿易」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-095-23003-0) P1087〕、その両者の緊張関係が琉球征伐の至る過程に大きく影響したと考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「琉球征伐」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Invasion of Ryukyu 」があります。 スポンサード リンク
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