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琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、沖縄本島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国〔建国当時はマジャパヒト王国との交易があったことが知られているが、明のムスリム・鄭和の保護下で新興イスラム国家・マラッカ王国が急速に貿易の主導権を奪い、琉球はマラッカ王国と貿易するようになった。〕との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けたりしていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。 == 国名 == 現在は琉球王国という表記が一般的だが、当時の名称は琉球國(りゅうきゅうこく、ルーチュークク)である。琉球の名称は、7世紀の中国の史書『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國條に記述される、大業6年(610年)に隋が侵攻した国、流求に由来するが、この「流求」がそのまま「琉球王国」(今日の沖縄県周辺)を指したわけではない(後述。琉球の項目も参照)。明との交易が本格化した14世紀頃には今日の沖縄県周辺の呼称として定着し、「琉球國」という国号が、1872年の日本政府による琉球藩設置(琉球王国の廃止)まで用いられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「琉球王国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ryukyu Kingdom 」があります。 スポンサード リンク
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