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薩鎮氷[さつ ちんひょう]
薩 鎮氷(さつ ちんひょう)は、清末民初の海軍軍人・政治家。清末・民国における最も著名な海軍提督の1人である。字は鼎銘。 == 事績 ==
=== 日清戦争まで === 1859年、薩都剌を輩出した色目人の名門薩氏に生まれる。1869年(同治8年)、福州馬尾船政学堂に入学し、天文・操舵を学ぶ。1872年(同治11年)、首席で卒業し、軍艦での研修を重ねた。1877年(光緒3年)、イギリス・フランスへ留学し、船舶の建造と操舵を引き続き学ぶことになる。まず薩鎮氷はイギリスのグリニッヂ海軍学校で学び、この時、同国に留学していた厳復と交流を持った。卒業後、イギリスの軍艦に実習で乗船し、地中海・大西洋・アメリカ・アフリカ・インド洋など世界各地を航海した。実習終了後も、電気工学、銃砲、水雷などを学び、工場を見学するなどして見聞を広げている。 1880年(光緒6年)3月、留学を終えて帰国し、軍艦「澄慶」の一等航海士に任命された。1882年(光緒8年)、天津水師学堂の教習に任命された。この時、黎元洪が同学堂の学生で、薩鎮氷と黎は師弟関係となっている。1886年(光緒12年)、軍艦「威遠」の管帯(艦長)に任命される。1887年(光緒13年)、練習艦「康済」の管帯に異動した。1888年(光緒14年)、参将(大佐に相当)に昇進した。1894年(光緒20年)、副将位を授けられ、そのまま「康済」の管帯として北洋海軍精練左営遊撃に加わった。 同年7月、日清戦争(甲午戦争)が勃発すると、薩鎮氷は威海衛付近の日島を守備した。翌年2月、日本軍の攻撃を受けて、薩の「康済」も懸命に防戦したが、日島は陥落し、劉公島に退却、まもなく清の海軍全体が降伏した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薩鎮氷」の詳細全文を読む
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