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薩長土肥(さっちょうどひ)は、江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた。 薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも圧倒的に藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、殉国者含め、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。また、戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治維新政府に人材を供給させた。 このため、明治政府の上位官職を薩長土肥で一時期ほぼ独占する状態となり、藩閥政治と非難された。しかし実際には、新政府発足以来、この4藩出身者の中で熾烈な権力闘争・路線闘争が展開されることによって明治政府が運営されていた。薩長出身者は政府・軍部の中核を占めたが、土肥出身者の一部は明治政府に残りつつも薩長政府を攻撃するという展開となった。明治の国政は、良くも悪くも、この薩長土肥主導による政治であったと言える。 == 来歴 == 1869年(明治2年)、4藩同時に率先して版籍奉還を上奏し、全国諸藩の版籍奉還を導いた。 1871年(明治4年)、再び4藩同時に率先して廃藩置県を上奏し、全国諸藩の廃藩置県を導いた。 1871年(明治4年)7月14日、実質的な最終決裁をする参議内閣に薩長土肥一人ずつの参議を供給することとなったため(参議に推された順番で、長州:木戸孝允、薩摩:西郷隆盛、肥前:大隈重信、土佐:板垣退助)、これ以降、薩長土肥出身者が参議の大部分を占めることになった。 1875年(明治8年)10月、土佐の板垣退助が明治六年政変に続いて明治政府を再び離脱し、国民を教化しつつ明治政府の外から自由主義的な議会制度を準備する運動を起こす道を歩み始めた。 1881年(明治14年)10月、急進的な議会制度の早急な実施を求めていた肥前の大隈重信が、明治十四年の政変によって明治政府を離脱せざるを得ない事態となり、板垣同様、明治政府の外から明治政府にイギリス的な憲法と議会政治を求める運動を起こす道を歩み始めた。 1898年(明治31年)6月、明治政府は、日本最初の政党内閣として憲政党による隈板内閣(首相:大隈重信、内相:板垣退助、ともに首班)を成立させた。 1914年(大正3年)4月、第1次山本権兵衛内閣総辞職、清浦奎吾内閣流産を受け、窮した元老は再び大隈重信を首班指名して大命を降下させ、第二次大隈重信内閣を成立させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薩長土肥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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