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薬丸 兼義(やくまる かねよし、文化2年12月25日(1806年2月13日) - 明治11年(1878年)12月1日)は薩摩藩の剣術師範。薬丸兼武の長子。幼名は、壱之助。通称ははじめ長左衛門、次いで半左衛門。諱は兼包、兼義。当時の一般的な呼称は薬丸半左衛門であり、史料中には主にこの名で登場する。薬丸流(薬丸自顕流)の師範として弟の薬丸新蔵とともに剣名が高く、下級武士を中心に多くの弟子を育てた。弟子の中から維新の元勲が数多く出たため、「明治維新は薬丸流がたたきあげた」と言われた。 家格は小番〔薬丸自顕流が下級武士を中心に行われたため薬丸家も下級武士だと書かれることが多い。しかしながら、薬丸家の家格は代々小番であるので、厳密に言うと家格の上では中級家臣でも上の方であった〕であり、明治3年(1870年)4月の「人別改帳」では3番組8番小番であったことが分かる。 また、代官就任時の役料から石高は50石以下。奄美大島や徳之島の役人や代官〔薩摩藩では地頭とは別に代官という職がある。地頭は家老や側用人などの藩の重役が兼務するのに対し、代官は藩内の席次が西郷吉兵衛の勘定方小頭より5つ下で、中級の職であった。〕を勤める。 == 経歴 (月日は旧暦)== *文化12年(1815年)8月21日、初お目見え。 *天保6年(1835年)12月28日、同年7月14日に父兼武が屋久島で死去したため、家督相続。 *天保7年(1836年)8月15日、通称を長左衛門に改名する。 *天保9年(1838年)6月21日、通称を半左衛門に改名する。 *天保14年(1843年)、大島蔵方目付となり、奄美大島に赴任〔『奄美資料集成』参照〕。 *弘化元年(1844年)、任期満了につき帰臥。 *嘉永4年(1851年)春、深見休八有安〔この人物は真影流(直心影流)剣術師範であり、嘉永7年に江戸で死去したと『薩陽過去帳』にある。養子の深見休八有正は兼義同様に二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となり、西南戦争に薩軍として参加。〕の後任として徳之島蔵方目付となり、徳之島に赴任〔『奄美資料集成』参照〕。 *同年4月16日、徳之島の亀津に着く。 *嘉永6年(1853年)春、任期満了につき帰臥。 *嘉永7年(1854年)1月22日、年功者ではなかったが、特別に代官に就任し、役料銀5枚30目を支給される〔『薩藩政要録』によると、この役料は持高50石以下の者がもらうことがしるされている。また、代々小番は10人扶持相当の家格であるが、代官職は5人扶持級の役職であった。但し、当時は代々小番でも5人扶持級の役職に就けない者もいた。〕。 *文久元年、藩主島津茂久の命により二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となる。当時、幕末の情勢により、武術を稽古する者が増え、演武館では手狭となったので、鹿児島城二ノ丸にも稽古所が置かれた。〔「池上四郎伝補説」参照〕。 *同年6月、剣術師範となったことにより、切米5石を与えられる〔『示現流兵法』参照。〕。 *文久2年(1862年)に島津久光が上洛。その際、什長としてこれに従う。 *元治元年に薬丸自顕流が二之丸稽古所での稽古から撤収する〔「池上四郎伝補説」参照〕。 *明治11年(1878年)に死去。法名あるいは神号は南林寺由緒墓にある現在の墓石には記載されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薬丸兼義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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