|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 薬師 : [やくし, くすし] 【名詞】 1. Bhaisajyaguru 2. Pindola 3. The Healing Buddha ・ 師 : [し] 【名詞】 1. (1) teacher 2. master 3. one's mentor 4. (2) the Reverend ・ 寺 : [てら] 【名詞】 1. temple ・ 門 : [もん] 1. (n,n-suf) (1) gate 2. (2) counter for cannons
薬師寺久左衛門(やくしじ きゅうざえもん、? - 万治元年(1658年))は江戸時代初期の長崎の砲術家で地役人も務めた。諱は種広。 薬師寺家は豊後の大名・大友氏の家臣で、筑前東郷を治めていた。しかし、大友氏の滅亡後、祖父の下野守種長らと共に長崎に移住し、磨屋町(とぎやまち)の乙名となった。 父・藤左衛門の鉄砲術を相伝し、後に諸流派を研究して鍛錬流(鍛練流)とし、その開祖となった(鍛錬流は後に自覚流と改める)。寛永14年(1637年)の島原の乱には、子の宇右衛門種永と共に従軍。 屋敷は磨屋町にあり、敷地は1,174坪。磨屋町の乙名は、久左衛門の死後は峰家が世襲。 元禄10年(1697年)、高木彦右衛門貞親が唐蘭商売元締に任命されるに伴い、外町常行司を務めていた種永の子・又三郎種政が町年寄となる。以後、薬師寺家は、長崎の町年寄を務めることになる。 延宝元年(1673年)に長崎奉行所が管理する大小19挺の石火矢を預けられる。文化5年(1808年)のフェートン号事件の際には、長崎奉行の松平康英に、武器蔵の石火矢・大筒を所定の所に配置するよう命じられている。 薬師寺家の墓地は、長崎市寺町の晧台寺(こうたいじ)にある。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薬師寺久左衛門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|