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藍 天蔚(らん てんい)は清末民初の軍人。北洋系に属し、同時に革命派の士官として知られる。字は秀豪。 == 事跡 == === 清末の革命活動 === 幼い頃は学問と商売を兼ねていた。成長すると張之洞の新軍に加入し、将弁学堂で学んだ。1902年(光緒28年)、張の推薦により日本へ留学する。成城学校を経て陸軍士官学校で学んだ。 1903年(光緒29年)春、日本で中国人留学生による拒俄運動(反露運動)が起き、拒俄義勇隊が組織される。藍はその学生軍隊長をつとめた。しかし、清朝政府の圧力により義勇隊は解散されている。1904年(光緒30年)、陸士工兵科第2期を卒業した。なお、同時期に留学した呉禄貞・張紹曽とともに、後に「北洋士官の三傑」と称される。 帰国後、藍天蔚は湖北督練公所提調兼湖北将弁学堂教習に就任した。このとき、藍は長沙日知会という組織に属し、革命派思想の宣伝につとめた。その後、第32標標統帯に異動した。しかし、第8鎮統制張彪に革命宣伝を猜疑・監視されたため、藍は自ら辞任している。 1907年(光緒33年)4月、奉天に転じ、呉禄貞・張紹曽とともに東三省総督徐世昌の下で職に就いた。1910年(宣統2年)春、後任の東三省総督錫良により、日本に軍事視察に赴き、陸軍大学校で学んだ。帰国後に第2混成協協統に任命され、奉天北大営に駐屯した。 1911年(宣統3年)10月、藍天蔚・張紹曽・呉禄貞は、直隷省永平県(現在の河北省盧竜県)で開催予定の秋季演習を機に挙兵をもくろむ。しかし、武昌起義勃発で演習が中止されてしまったために予定を変更し、急遽清朝に向けて憲法制定・責任内閣制実施を要求する声明を発した。このとき、張・呉に加え、第3鎮第5協統領盧永祥、第39協統領伍祥禎、第40協統領潘矩楹も名を列ねている。これにより、清朝は憲法公布を迫られるなど一定の圧力となった。しかし藍らに対する清朝、さらには袁世凱の追及も厳しかった。特に呉と張は更迭されてしまい、呉はまもなく袁の刺客に暗殺され、張も下野に追い込まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藍天蔚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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