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藤ノ川豪人 : ミニ英和和英辞書
藤ノ川豪人[ふじのかわ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [ごう]
 【名詞】 1. fine feathers 2. writing brush 3. a little
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

藤ノ川豪人 ( リダイレクト:藤ノ川武雄 ) : ウィキペディア日本語版
藤ノ川武雄[ふじのかわ たけお]

藤ノ川 武雄(ふじのかわ たけお、本名・森田 武雄祥玄武雄1946年9月26日 - )は、北海道河東郡音更町出身で伊勢ノ海部屋所属の元大相撲力士。身長178cm、体重109kg。得意手は突き、押し、右四つ。最高位は西関脇拓殖大学第一高等学校卒業。小柄さと機動型の相撲から土俵のキャッチフレーズが取り分け多かったことで知られており活字になったものだけでも今・牛若丸、チビッコ・ギャング、小さな巨人、鉄腕アトム、土俵のクレイ、ベトコン、忍者、土俵の魔術師など多数確認される〔お相撲さん -その世界.野崎誓司(著).恒文社.1979年.〕〔四股名『藤ノ川』は伊勢ノ海部屋伝統の四股名であり本名も「森田」という平凡なものであったため、先達の『藤ノ川』と区別をつけるためにたくさんの異名を付けられるようになったという〕。
== 来歴 ==
1961年(昭和36年)5月場所、伊勢ノ海部屋より初土俵。両親の意向で角界入り後に高校への通学も行い、幕下下位にいた頃に「小柄だから相撲は無理だ。高卒後は拓大へ入れてやる」と兄から打診されたことで学業を選び相撲を辞めることも考えたが大相撲の継続も高校卒業も両方果たすことができた。1966年(昭和41年)1月場所新十両、同年11月場所に新入幕を果たし、戦後生まれの力士として最初の幕内力士となる。入幕3場所目で12勝3敗の好成績をあげ殊勲・技能賞をダブル受賞、以後横綱柏戸剛の弟弟子でもあり「今牛若」「ちびっ子ギャング」などの異名をとった相撲振りや力士にしてはスマート〔角界の伝統、どう次代に…定年の伊勢ノ海親方に聞く 日本経済新聞 2011/9/27 7:00 〕な体型や渋い容姿から人気を博し、三賞を全て取る活躍をする。一方で恥ずかしがり屋でも知られ、「土俵は別だけど大勢の人の前に出るのは嫌。マゲをつけてジロジロ見られるのが嫌」などと語るような人物であったため土俵外の話題には乏しかった。ちなみに大鵬の45連勝目の相手(1969年(昭和44年)3月場所初日)でもある。当初はただ頭からぶつかるように指導されたことで新三役の時期まで本人が「右の耳がわいている(耳がこすれて変形すること)のを見ればわかるように、私は典型的な右四つ、右差し」と認識する相撲ぶりに徹していたが、稽古場で頸椎を痛めてしまったことで自信があった握力が神経の圧迫で失われてしまい、以降は動き回る相撲に変わっていった〔角界の伝統、どう次代に…定年の伊勢ノ海親方に聞く 日本経済新聞 2011/9/27 7:00 〕。
1969年(昭和44年)7月場所では前頭5枚目で12勝3敗の成績を挙げ、大関清國優勝決定戦大関・清國との優勝決定戦 〕を行い敗れはしたが、敢闘・技能賞を手にする活躍を見せた。1971年(昭和46年)7月場所6日目、前頭7枚目義ノ花戦で左足を負傷して7日目より休場してからは、持ち前の動き回って取る相撲がとれなくなり、幕内下位と十両を低迷するようになった。このことが公傷制度導入の一因とされた。結局1972年(昭和47年)7月場所幕内に返り咲いたものの、11月場所で十両に陥落し場所前に引退を表明。26歳の若さで年寄立川を襲名した(この年齢以上で新十両・新入幕する力士も珍しくなく、過去には27歳で入門という智乃花(現玉垣)の例もあった)。
引退後は、伊勢ノ海部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、1982年(昭和57年)12月に先代師匠(元前頭柏戸秀剛)が死去したことに伴い、伊勢ノ海部屋を継承した(立川の株は後に土佐ノ海に売却するまで引き続き所有)。これまでに関脇・土佐ノ海らを育てている。部屋で外国人力士を採用しなかったが、本人曰く「指導に自信がないからです。ないんだったら入れない方がいい。それだけ師匠には責任があるんです。」という理由だった。
2002年(平成14年)から日本相撲協会理事に選出され、総合企画部長としてファンサービス企画の総責任を負っていたが、2007年(平成19年)に八百長疑惑や横綱・朝青龍問題、時津風部屋力士暴行死事件など空前の難問が一挙に噴出するという難局に見舞われ北の湖理事長の参謀として窮地に立たされた。この問題で記者会見等で北の湖に代わり報道陣に対し協会としてのコメントを発表する場面が度々見られ、年寄時代晩年期は各不祥事の「再発防止検討委員会」など委員長職を任され事件の根絶に忙殺された。2010年(平成22年)1月の任期満了をもって理事を退任した。停年直前には「敢闘精神評価」のアンケートを取り入れ、これが現在でも館内での名物として存続している〔角界の伝統、どう次代に…定年の伊勢ノ海親方に聞く 日本経済新聞 2011/9/27 7:00 〕。同年2月から2011年(平成23年)1月まで相撲博物館館長代行。
停年を前に下の名前を「裕己茂」から初代伊勢ノ海親方、中断を挟んで7代目から10代目に当たる先代の伊勢ノ海親方が引退後、数年間名乗っていた「五太夫」に改名。親方の話では字画の関係で番付表記は「伊勢ノ海、五太夫」と間に「、」が入るという。
2011年(平成23年)9月25日(9月場所千秋楽)弟子の幕下・(当時)が新関取昇進の内定を得たことを見届けながら日本相撲協会を停年退職。伊勢ノ海部屋は弟子の北勝鬨勝ノ浦親方が12代伊勢ノ海の名跡と同時に継承した。なお、この日のみ12代伊勢ノ海と名跡を交換して勝ノ浦となっていたため、停年後もしばらく勝ノ浦の名跡を所有していた(実際、北勝鬨に売却するまでは藤ノ川が管理していた)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤ノ川武雄」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujinokawa Takeo 」があります。




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