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藤井 康雄(ふじい やすお、1962年7月7日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。から福岡ソフトバンクホークスの一軍打撃コーチを務めている。 == 経歴 == === アマチュア時代 === 福山市で生まれ育ち、『巨人の星』に惹かれて小学校2年生で野球を始め、当時は三塁手を務めていた〔「野球浪漫 にんげんドキュメント 50回 藤井康雄[オリックス] 浮浪雲のように。 『細く長く、頑張れ』。」『週刊ベースボール』、2002年3月25日号、P.40〕〔「第二の人生で一五本目の満塁本塁打めざす。」『潮』、2003年1月号、P.261〕。この頃から将来はプロ野球選手になることしか頭になく〔「HUMAN SKETCH 6回 この人のテーマは無限の可能性に挑戦 」『週刊ベースボール』、1989年12月25日号、P.122〕、同じ左打ちの王貞治に憧れていた〔。福山市立鷹取中学校では投手と外野手を兼任し、打球がライト側の校舎を越えるほどの長打力があったという〔。野球留学で進んだ泉州高等学校でもポジションは変わらず、長打力を評価されていた一方で変化球が苦手だった〔。 甲子園出場はならなかったが知人の勧めでプリンスホテルに入社し、プロ入りした石毛宏典の後任として遊撃手へのコンバートが検討されたものの、数日でこの案が却下されて一塁手となっている〔。社会人時代には全日本代表の4番を務めた事もある〔『潮』、2003年1月号、P.265〕。また20代前半で肩を故障して半年ほど野球ができなくなり、歯がゆい思いをしたという〔読売新聞、2002年11月18日付朝刊、大阪本社版、大阪地方面、P.33〕。 社会人野球No.1の強肩とベース1周14秒5の俊足を評価され〔、1986年のドラフト会議で阪急ブレーブスから4位指名を受けた。東京に6年間いた事もあって在京球団を希望していたが、「与えられた環境で頑張ることが大事ではないか」という母の助言もあって入団を決めたという〔『潮』、2003年1月号、P.262〕。担当スカウトは三輪田勝利で、契約金と年俸それぞれ4,300万円、450万円(いずれも推定)で契約を結んでいる〔読売新聞、1986年12月12日付朝刊、P.17〕。全日本代表のメンバーで同時入団した山越吉洋(86年2位)、本西厚博(85年4位、翌年入団)と共に「全日本トリオ」と呼ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤井康雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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