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藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は 浄土真宗本願寺派僧侶、教誨師。広島県福山市(旧沼隈郡)出身。 == 経歴 == * 1878年(明治11年)、広島県福山市の浄土真宗本願寺派正光寺生れ。 * 1900年(明治33年)、本願寺大学林(現在の龍谷大学)卒業。 * 1902年(明治35年)、京都監獄での教誨実習生に任ぜられ、その後、本願寺派遣の内務省警察監獄学校留学生となる。市谷監獄の教誨師であった河野純孝を訪ね、大きな感化を受ける * 1904年(明治37年)、台南監獄教誨師事務嘱託に就き、1909年(明治42年)以降、高松(1909年〈明治42年〉)、小菅(1915年〈大正4年〉)、東京(1918年〈大正7年〉)、豊多摩、市谷の監獄や刑務所の教誨師を歴任。 * 1936年(昭和11年)、東京保護観察所の保護司。 * 1938年(昭和13年)、東京保護観察所の保護司退官。 * 1939年(昭和14年)、法務大臣官房保護課事務嘱託(司法保護委員の指導)。 * 1940年(昭和15年)、司法大臣表彰。 * 1950年(昭和25年)、藍綬褒章受章。 この間、保護施設の台南累功舎の創立、高松讃岐修正会と東京の小菅真哉会の整備。1926年(大正15年)、両全会、帝国更新会と和敬会母子寮の創立に当たる。 刑務所内の売店の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮を創始し、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した〔山下存行『更生保護史の人びと』275-281頁〕〔『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺 112頁〕〔『龍谷大学論集』242-243頁〕。1952年(昭和27年)、東京信濃町両全会において還化。行年77才〔『死刑囚物語』1951年、160頁〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤井恵照」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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