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藤井 栄治(ふじい えいじ、1940年2月1日 - )は、大阪府堺市出身の元プロ野球選手(外野手)・野球指導者・解説者。 いつも表情を変えないことから、「鉄仮面」のあだ名を持った。 == 来歴・人物 == 登美丘高校から関西大学へ進学。関西六大学リーグでは在学中3度優勝。リーグ通算68試合に出場し、213打数64安打、打率.300、0本塁打、29打点。最上級生となった1961年春季リーグで優勝、首位打者を獲得する。その直後の日本選手権では、エース村瀬広基を擁し決勝に進出するが、日大の宮田征典投手に抑えられ敗退、準優勝にとどまる。 に阪神タイガースへ入団。東京六大学出身の安藤統夫・室山皓之助が同期で、ライバル心を燃やす。勝負強い打撃を武器に5番打者、後に1番打者としてチームを支えた。新人時代に監督の藤本定義の期待に応え、球団史上初のリーグ優勝に貢献。外野守備にも優れ、当時の二塁手・鎌田実によれば、二塁走者がいる時はわざと打球をライトを守る藤井の所に抜けさせ、本塁を突いた走者を藤井の送球でアウトにしていたほどであった。セ・リーグの外野手最多連続守備機会無失策記録の保持者でもある(817連続守備機会)(連続シーズン)(67.9.17~73.7.15 ※パ・リーグ移籍後820機会まで継続した)。 しかし、大学の先輩である村山実と懇意であったため、後任監督の金田正泰との確執が生じる。の春季キャンプでは片手捕球をしたことをナインの前で酷評され、激怒して詰め寄り途中で帰り、金田監督との溝が深まった。 このような確執から、に阿部良男との交換トレードで太平洋クラブライオンズに移籍。藤井が自ら移籍を志願し、かつて阪神のマネージャーで、当時太平洋球団代表だった青木一三が獲得に動いた〔ベースボール・マガジン社『プロ野球トレード史Ⅱ 増補改訂版 別冊ベースボール冬季号』(1991年出版)〕。しかし、球団のスポンサーが太平洋クラブからクラウンガスライターに代わったオフに戦力外となり、大学の先輩である監督の上田利治の強い要望〔ベースボール・マガジン社『日本プロ野球トレード大鑑-1936~2001』(2001年1月出版)上田利治氏のインタビューより。高橋直樹(当時日本ハム)キラーとして。〕で阪急ブレーブスへ無償トレードで移籍。は代打の切り札として活躍したが、は不本意な成績に終わり、同年限りで現役引退。 引退後は、西武ライオンズ一軍打撃コーチ( - )、近鉄バファローズ一軍外野守備コーチ( - )、一軍打撃コーチ()を歴任。西武時代には立花義家・石毛宏典を育てた。その後はサンテレビ解説者( - )を挟んで、、古巣・阪神の一軍打撃コーチに就任。和田豊・大野久・中野佐資を育て、には二軍監督を務めたが、村山の監督辞任に伴い退団。亀山努・高井一・鮎川義文・星野修ら若手野手陣が影響を受ける。からにはスポーツニッポンで評論家を務め、「鉄仮面参上」というコラムを連載。、監督に就任した鈴木啓示からの要請で、近鉄にヘッド兼打撃コーチとして復帰するが、開幕して5試合目の4月20日、体調不良により退団した〔スポーツニッポン『我が道』2011年10月26日〕。 2008年からは江坂ベースボールセンターにてマンツーマンのバッティング教室を開講。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤井栄治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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