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藤原 保忠(ふじわら の やすただ、寛平2年(890年) - 承平6年7月14日(936年8月3日))は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原時平の長男。官位は正三位・大納言。八条大納言・八条大将・賢人大将と称された。 == 経歴 == 延喜6年(906年)従五位下に叙爵。醍醐朝の執政者藤原時平の長男として順調に昇進、延喜14年(914年)25歳で早くも従四位上・参議として公卿に列し、延喜21年(921年)には従三位・権中納言に叙任される。さらに、延喜23年(923年)には中納言に昇進するとともに、甥の慶頼王(同母妹藤原仁善子の子)が皇太子に立てられその春宮大夫に任ぜられるなど、保忠は次期摂関の有力候補となった。 しかしながら、延長3年(925年)慶頼王は立坊2年余りで即位することなく没し、また保忠の父・時平は既に早逝して、藤原氏の嫡流が叔父の藤原忠平に移っていたこともあり、延長8年12月(931年1月)保忠が大納言に昇進した際には既に41歳になっており、昇進時の年齢としては従兄弟の実頼(40歳)、師輔(35歳)に比べやや遅れた。 一生の大半を、父・時平に讒言されて大宰帥に左遷された菅原道真の怨霊に怯えながら過ごしたとされる。保忠が病床に伏せ、祈祷のため僧侶に薬師如来の読経をさせた途中、宮毘羅大将の名前が出た事を聞いところ、近衛大将である自分を縊ると読んでいるのだと思い、恐怖の余り気絶してしまったという〔『大鏡』第二巻,左大臣時平〕。結局、保忠は大臣の官職を目前にしながら、承平6年(936年)に47歳で早逝してしまった。他の時平の子も同様に短命であり、これは時平が菅原道真を無実の罪に陥れた報いであると噂された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原保忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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