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藤原 保輔(ふじわら の やすすけ、生年不詳 - 永延2年6月17日(988年8月7日))は、平安時代中期の官人、盗賊。藤原南家、右京大夫・藤原致忠の子。官位は正五位下・右京亮。 == 経歴 == 官人として右兵衛尉・右馬助・右京亮を歴任したが、盗賊として有名で、『尊卑分脈』でも「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」と記されている。 寛和元年(985年)、源雅信の土御門殿で開かれた大饗において、藤原季孝に対する傷害事件を起こす。さらに、以前兄藤原斉明を追捕した検非違使・源忠良を射たり、永延2年(988年)閏5月には藤原景斉・茜是茂の屋敷への強盗を行うなどの罪を重ねた。これらの罪状により、保輔に対する捜索は続けられ、朝廷より保輔を追捕した者には恩賞を与えると発表され、さらには父・致忠が検非違使に連行・監禁された。この状況に危機感を持った保輔は同年6月14日に北花園寺で剃髪・出家したが、まもなく以前の手下であった足羽忠信によって捕らえられた。なお、逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、翌日その傷がもとで獄中で没したという〔『続古事談』5〕。なお、これは記録に残る日本最古の切腹の事例で、以降武士の自殺の手段として切腹が用いられるようになったという〔仲井克己「藤原保輔」『平安時代史事典』角川書店、1994年、2203頁〕。 後世『今昔物語集』などに見える盗賊の袴垂(はかまだれ)と同一視され、袴垂保輔という伝説的人物となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原保輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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