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藤原 元名(ふじわら の もとな、仁和元年(885年) - 康保2年4月18日(965年5月21日))は、平安時代初期から中期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原清経の三男。官位は正四位下・参議 == 経歴 == 醍醐朝では延喜5年(905年)兵庫助を務め、延喜14年(914年)従五位下に叙爵。延喜17年(917年)玄蕃頭、延喜21年(921年)に能登守、延長5年(927年)に備後守と国司を務め、その功績で同年従五位上に叙される。朱雀朝でも引き続き承平2年(932年)伊予守、承平6年(936年)大和守と地方官を務め、翌年に正五位下に昇る。 元名が伊予守として赴任した際に伴い、伊予掾としたのが従兄弟(大宰少弐藤原良範)の子にあたる藤原純友である。血縁は悪くないが父を早くに亡くしていた純友は、縁者の元名に引き立てられた、とも言える〔赴任先である伊予国は当時の諸国中屈指の経済的な豊かさであり、掾とは言え、受領としては出世コースであるとする見方もある。また、元名・純友の属する藤原長良系は地方官歴任後に都に戻って公卿にまで昇った人物も複数存在しており、実際に元名も正四位宮内卿まで登っている。こうした事実もあり、実際には出世の可能性も存在した比較的恵まれていた身分であったと考える見方もある。〕。元名の命により瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧していたが、そのことにより純友は現地海賊と縁ができ、また自身も勢力を蓄え、4年後に元名が大和守となる頃には海賊の頭目とも呼ばれるようになり〔ただし、この過程については、土着する過程で自らが海賊化したとする説と、伊予に土着後に後任の伊予守である紀淑人に協力して海賊の帰順にあたっているうちにその信望を集めたものの紀淑人への不満から彼らに推されて指導者となったとする説がある。〕、元名がいなくなった後も弟の純乗らと共に現地に留まり勢力を拡大、瀬戸内から大宰府・北九州を巻き込んだ承平天慶の乱へと繋がることになる。 天慶4年(941年)従四位下に昇進、翌天慶5年(942年)に美濃権守を務める。村上天皇の即位まもなく天慶10年(947年)2月に丹波守に任ぜられ、天暦6年(952年)に従四位上・民部大輔に叙任。天暦7年(953年)に山城守を務める。 天暦8年(954年)大宰大弐に任ぜられた後、天徳2年(958年)参議に任ぜられ公卿に列す。天徳4年(960年)に讃岐守・宮内卿を兼ね応和2年(962年)正四位下に昇るが康保元年(964年)2月に致仕し8月に出家した後、康保2年(965年)4月に薨去。享年81。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原元名」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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