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藤原 元方(ふじわら の もとかた、仁和4年(888年) - 天暦7年3月21日(953年5月6日))は、平安時代中期の公卿。藤原南家、参議・藤原菅根の次男。官位は正三位・大納言。 == 経歴 == 延喜6年(906年)17歳にして文章得業生となる。越前大掾・式部丞を経て延喜17年(917年)従五位下・刑部少輔に叙任される。延喜18年(918年)権右少弁兼侍従に任ぜられると、延喜22年(922年)従五位上・右少弁、延喜23年(923年)左少弁と弁官を務めながら昇進する。醍醐朝末には延長6年(928年)正五位下、延長7年(929年)従四位下と昇進すると共に、学者として皇太子・寛明親王の東宮学士や式部権大輔を務めた。 延長8年(930年)寛明親王の即位(朱雀天皇)に伴い、東宮学士を務めた功労として正四位下に昇叙。式部大輔を経て、天慶2年(939年)参議に任ぜられて公卿に列した。天慶5年(942年)従三位・中納言。 娘の祐姫が村上天皇の更衣となり、天暦4年(950年)に第一皇子・広平親王を生んだことから重用され、天暦5年(951年)には正三位・大納言に進み、左右大臣に並んでいた藤原実頼・師輔兄弟、その従兄弟の大納言・藤原顕忠に次ぐ地位に昇る。しかし、広平親王と同い年で、藤原師輔の娘である中宮・安子所生の第二皇子・憲平親王(冷泉天皇)が、師輔の権勢により生後2ヶ月で皇太子に立てられ、広平親王の将来は閉ざされた。このことに対し元方は深く失望し、その余り病を得て悶死したとされる。時に天暦7年(953年)3月21日、享年66。 後代、元方は怨霊となって師輔や冷泉天皇、さらにはその子孫にまで祟ったと噂された。とりわけ、冷泉天皇の精神病や三条天皇の眼病の際には、その影響が人々に意識されたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原元方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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