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藤原 光能(ふじわら の みつよし)は、平安時代末期の貴族。藤原北家御子左流。藤原忠成の子。正三位・参議。 == 来歴 == 久安2年(1146年)に叙位、長寛2年(1164年)に従五位上に叙せられ、永万元年(1165年)に下野守に任ぜられる。後白河院近臣として活躍し、仁安2年(1167年)に従四位下・右近衛少将となり、翌年には皇后宮権亮に任ぜられて従四位上から正四位下に進む。承安元年(1171年)には右近衛中将、安元2年(1176年)には蔵人頭に任じられる。治承元年(1177年)に皇太后宮権大夫に任じられると、同3年(1179年)には右兵衛督、更に同年10月には参議を兼帯するが、翌月の治承三年の政変によって解官される。 伝承によれば、治承4年(1180年)7月、当時福原京にいた光能の許に伊豆国の源頼朝と面会した文覚が訪れ、頼朝のために後白河法皇に取り次いで平清盛追討の院宣を出させるように迫ったとされている。『愚管抄』はこれを妄説として否定するが、『平家物語』などにおいては名場面の1つとして採用されている。 養和元年(1181年)に参議に復して従三位に進み、翌年には左兵衛督・丹波権守を兼ねる。寿永2年(1183年)に正三位に昇るが病に倒れて出家し、程なく薨去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原光能」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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