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藤原 刷雄(ふじわら の よしお、8世紀 - 没年不詳)は、奈良時代の貴族。太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)の六男〔但し、『尊卑分脉』藤原仲麻呂子息系図によると、六男は薩雄で、刷雄本人は八男となっている(岸俊男『藤原仲麻呂』人物叢書)p115より。〕。母は大伴犬養の娘。子に藤原千世がいる。官位は正五位下・図書頭〔『尊卑分脈』〕。 == 経歴 == 天平勝宝4年(752年)遣唐使の留学生として藤原清河に随行、渡航前に無位から従五位下に昇叙される。同6年4月頃帰国したと推察される。天平宝字2年(758年)には父とともに「藤原恵美」朝臣の姓を賜与された。 天平宝字8年(764年)に恵美押勝の乱が起きて一族が悉く処刑された中で、刷雄本人は若い時から禅行を修めていた(当時の社会で重んじられていた遣唐使留学生だった経歴が考慮されたものとも)として死を免れ、隠岐国に配流された。 宝亀3年(772年)に赦免されて本位(従五位下)に復し官界に復帰、同年姓も藤原朝臣に戻される。宝亀5年(774年)但馬介、次いで但馬守に任ぜられる。宝亀9年(778年)従五位上に叙せられ、同年刑部大判事。のち、治部大輔・上総守・大学頭・右大舎人頭を歴任後、延暦10年(791年)に陰陽頭に任じられた。 淡海三船撰の『唐大和上東征伝』に、天平宝字7年(763年)5月に没した鑑真を悼む五言詩が収録されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原刷雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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