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藤原 国経(ふじわら の くにつね、天長5年(828年) - 延喜8年6月28日〔『日本紀略』〕(908年7月28日)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、権中納言・藤原長良の長男。陽成天皇の外伯父。官位は正三位・大納言。 == 経歴 == 蔵人・左衛門大尉を経て、貞観元年(859年)従五位下に叙爵。のち、清和朝では侍従・右兵衛権佐などを務める。この間貞観9年(867年)従五位上、貞観17年(875年)正五位下と昇進しているが、太政大臣・藤原良房の養子となっていた8歳下の弟・基経が貞観6年(864年)に29歳にして早くも従四位下・参議に叙任されていたのに比べて、昇進は大幅に遅れた。 貞観18年(876年)に甥の陽成天皇が即位すると、翌貞観19年(877年)従四位下・蔵人頭、元慶3年(879年)従四位上と急速に昇進し、元慶6年(882年)正四位下・参議に叙任され公卿に列する。議政官として皇后宮大夫を兼帯し妹の皇太后・藤原高子に仕えている。 宇多朝の寛平6年(894年)4月に新羅の入寇(寛平の韓寇)が発生した際には、その討伐のために大宰権帥に任ぜられ、同年5月には従三位・権中納言に昇進した。長命を保ち、70歳を過ぎてからも寛平9年(897年)中納言、昌泰の変で右大臣・菅原道真が失脚した翌年の延喜2年(902年)には大納言と昇進を続け、延喜3年(903年)正三位に至る。延喜8年(908年)6月29日薨去。享年81。 勅撰歌人として、和歌作品が『古今和歌集』『続古今和歌集』に1首ずつ採録されている〔『勅撰作者部類』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原国経」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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