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藤原 定国(ふじわら の さだくに、貞観8年(866年) - 延喜6年7月2日(906年7月25日))は、平安時代初期から中期にかけての公卿。藤原北家良門流、内大臣・藤原高藤の長男。醍醐天皇の外叔父。官位は従三位・大納言。泉大将と号す。 == 経歴 == 仁和3年(887年)六位蔵人、仁和4年(888年)左衛門少尉を経て、寛平2年(890年)従五位下に叙爵。 寛平年間は侍従・五位蔵人・右衛門佐として宇多天皇の身近に仕えるとともに、寛平5年(893年)甥の敦仁親王が皇太子に立てられると、春宮少進のち同大進としてこれに仕える。またこの間、寛平7年(895年)従五位上、寛平8年(896年)正五位下・左近衛少将、寛平9年(897年)3月に従四位下に叙任されるなど、宇多朝末にかけて急速に昇進した。 寛平9年(897年)7月の敦仁親王の即位(醍醐天皇)に伴って、従四位上・蔵人頭兼左近衛権中将に叙任される。その後も、昌泰2年(899年)には2月に参議に任じられ公卿に列すと、同年12月には従三位・中納言と、天皇の外戚として引き続き急速に昇進し、延喜2年(902年)大納言に至る。 なお、この間の昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変では、蔵人頭・藤原菅根とともに醍醐天皇に対して「天下之世務以非為理」と奏上して、菅原道真が失脚するきっかけを作り、変後には道真の後任として右近衛大将に任ぜられている。延喜4年(904年)醍醐天皇の皇子・保明親王が立太子すると春宮大夫を兼ねるが、延喜6年(906年)7月2日薨去。享年41。最終官位は大納言従三位兼右近衛大将春宮大夫陸奥出羽按察使。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原定国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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