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藤原 定隆(ふじわら の さだたか)は平安時代後期の公卿。権中納言・藤原清隆の子。官位は従三位・左京大夫。 == 経歴 == 保延7年(1141年)従五位下・備中守に叙任される。久安4年(1148年)に従五位上に進み、久安6年(1150年)但馬守に任ぜられる。 仁平2年(1152年)加賀守に任ぜられる。仁平3年(1153年)正五位下に叙され、久寿元年12月(1155年2月)に右兵衛権佐を務め、春宮権大進を兼ねる。母が乳母を務めた近衛天皇の近臣の1人で、天皇崩御の際に天皇の居所である近衛殿から天皇の父母(鳥羽法皇・美福門院)のいる鳥羽殿に駆け込み、崩御の一報を伝えている〔『兵範記』久寿2年7月23日条〕。保元2年(1157年)従四位下・皇太后宮亮に叙任されると、丹波守・三河守・越中守・伊予守・備中守と各国の受領を歴任。応保2年(1162年)右馬頭、永万2年(1166年)左京大夫をそれぞれ兼任する。仁安2年(1167年)、後白河上皇の院別当を務め、法勝寺の千僧読経において禄を賜っている〔『玉葉』仁安2年3月24日条〕。その一方で、後白河上皇の院近臣でありながら、二条天皇期には天皇親政派であった〔定隆は守仁親王(二条天皇)の立太子から保元2年の従四位下叙位まで東宮権大進を務めた他、二条天皇親政派の中心であった藤原経宗の妻は定隆の姉妹であった。〕ことが知られ、二条天皇による伊勢神宮遥拝の再興に定隆が深く関与していた〔『山槐記』応保元年12月25日条〕〔中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年、156 - 162頁。ISBN 4-305-70296-7。〕。 仁安3年(1168年)従三位・皇太后宮亮に叙任され公卿に列す。仁安4年(1169年)周防権守を兼ねるが、嘉応2年(1170年)10月2日に俄かに薨去した。享年37。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原定隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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