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藤原 実経(ふじわら の さねつね、長徳4年12月3日(998年12月24日) - 寛徳2年7月10日(1045年8月24日)〔『尊卑分脈』などには享年27とあるが、寛仁3年(1019年)には既に民部大輔の地位にあり誤記と考えられている。〕、實經)は、平安時代中期の貴族。権大納言・藤原行成の長男。官位は正四位上・近江守。 == 経歴 == 行成の日記『権記』に誕生記事が記載されており、母親の後産が悪く観修僧都の加持によって無事に出産を終えたことが記されている。寛弘3年3月16日(1006年4月19日)に9歳で昇殿を許され、3年後の寛弘6年12月14日(1010年1月1日)に元服を行う。加冠は藤原斉信が行い、藤原道長も馬1疋を贈ってこれを祝った〔『権記』・『御堂関白記』による。〕。長和元年(1012年)には右近衛少将として賀茂祭の近衛府使を務める。3年後には父の書額功によって従四位上に叙せられた。後一条天皇即位時に民部大輔と侍従を兼ねる。 治安3年(1021年)但馬守在任時に、同国にあった小一条院荘園の荘官と推定される惟朝法師に対して、国府の役人を殺害したという虚偽の容疑をかけたとの疑いで、実経は郡司7名とともに告発された。殺人容疑は虚偽であったが惟朝側にも罪がある(暴行事実の認定か?)として、最終的に両者ともに宥免され、同年6月2日に実経は釐務(職務)停止1ヶ月の処分を受けた(7月3日まで)。 その後、万寿元年(1024年)に行われた藤原千古の着裳に際して父親の藤原実資に絹50疋を贈るなど、有力者への献上を行っている。父・行成の没後、修理大夫を経て近江守に任ぜられたが、長元5年(1032年)に同国の百姓から不法を上訴されている。だが、その後も近江守の任にあり、3年後に藤原頼通の元で開かれた高陽院水閣歌合にも「右方 近江守」として参加している。 寛徳2年(1045年)後冷泉天皇即位から約3ヶ月後の7月10日に卒去。享年48。一条天皇から後冷泉天皇まで五朝に亘って仕えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原実経」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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