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衣笠 家良/藤原 家良(きぬがさ/ふじわらの いえよし)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿、歌人。大納言・粟田口忠良の次男。衣笠内大臣(内府)と号す。新三十六歌仙の一人。 == 経歴 == 建久3年(1192年)大納言・粟田口忠良と権大納言・藤原定能の娘の間の子として生まれる。父・忠良は政治的能力が欠如していたが、和歌に通じ勅撰和歌集には69首が入る歌人である。また、祖母は小倉百人一首に撰ばれた著名な歌人、左京大夫・藤原顕輔の娘である。外祖父の定能は政治的能力が高く、道綱流では異例の権大納言にまで昇った人物であり、和歌・政治ともに家良に繫がったと思われる(後述)。 正治2年(1200年)に右大臣・近衛家実の加冠によって元服。それと同時に従五位下に叙爵。正治3年(1201年)に侍従、建仁2年(1202年)従五位上に叙され、禁色を聴される。また、参内の折には度々無作法な振る舞いを見せ、藤原定家に批難されている。なお、父・忠良は定家に非器之性と評されており、この家良の無作法な振る舞いは父・忠良より受け継がれたものだと推測される。 建仁3年(1203年)に正五位下に昇り、元久元年(1204年)に左近衛少将を務める。元久2年(1205年)に越前権介を兼任し、元久3年(1206年)従四位下に陞叙。建永2年(1207年)には従四位上・左近衛中将に叙任。承元3年(1209年)には正四位下・甲斐権介に叙任。この年外祖父・定能が薨去。承元5年(1211年)に従三位に叙され公卿に列し、備中権守を経て建保2年(1214年)に正三位、承久元年12月(1220年1月)には従二位、さらに承久4年(1222年)に正二位に叙された。元久元年12月(1225年2月)に参議及び権中納言を経ずに中納言に抜擢される。しかし、翌嘉禄元年(1225年)5月に父・忠良が薨去。さらに同年12月に三条実親に官途で先を越されたのを理由に嘉禄2年(1226年)の行幸に供養しなかったという〔『明月記』〕。しかし、近衛長子が後堀河天皇の中宮に冊立されたのを機に参内が増え、嘉禄3年(1227年)には権大納言となった。また、中納言への任官は家良にとっても感慨深いものであったらしく、『万代集』にこの時に家良が詠んだ歌が入集している。 この間の承久3年(1221年)に承久の乱が発生する。乱中の家良の動静は不明だが、本家である近衛家の当主、近衛基通や家実の意向に従ったと推測される。乱後、後鳥羽上皇の近臣が失脚する中、上皇の側近ではなかった家良は乱後、急速に昇進を始めた。また、この頃九条道家の信任を得ており、嘉禎3年(1237年)道家邸を訪問した際には厚遇された。そのためか幾度も道家から上卿を務めることを要請されたがこれを固辞している。 寛喜3年(1231年)秀仁親王(のちの四条天皇)誕生の際に琵琶を演奏するがこれが酷評され、相当の修練に勤しんだという。 嘉禎3年12月(1238年1月)に大納言に昇る。さらに仁治元年(1240年)に内大臣となり、滋野井公光邸において大臣大饗が行われた。しかし、仁治2年(1241年)に辞任した。父が政治的に無能であったにもかかわらず、内大臣にまで昇進したのは、家良自身の政治的能力が高かったことや、前述の通り母方の血縁が大きいとされる。 文永元年(1264年)9月10日薨御。享年73。『天子摂関御影』には家良の肖像が残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「衣笠家良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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