|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 藤 : [ふじ] 【名詞】 1. wisteria ・ 原 : [はら, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation ・ 原審 : [げんしん] (n) original sentence
藤原 審爾(ふじわら しんじ、1921年(大正10年)3月7日 - 1984年(昭和59年)12月20日)〔生日は戸籍では3月30日となっている。(神原孝史「年譜」(『花氷(下)』講談社文庫 1988年)〕は、日本の小説家。純文学から中間小説、エンターテイメントまで幅広い作品で活躍し、「小説の名人」の異名を取った。初期の代表作『秋津温泉』や、『泥だらけの純情』『新宿警察』など、映画、ドラマ化された作品も数多い。 == 経歴 == 東京府本郷に生まれる。3歳で母と生別、6歳で父と死別し、父の郷里である岡山県備前市で祖母に育てられた。閑谷中学校を経て、青山学院高等商業部に進むが、肺結核のため中退。療養生活を続けながら雑誌社で編集を手伝う傍ら、外村繁に投書雑誌の選者をしていた縁で師事して創作活動を行い、同人誌『曙』を発行。1945年の岡山空襲で吉備津に疎開、戦後は倉敷市に移り、同人誌『文学祭』を発行。これに掲載した「煉獄の曲」が河盛好蔵に認められる。 1946年に外村繁の雑誌『素直』に「破倫」、また河盛の推薦で『新潮』に「永夜」、『新生』に「初花」を発表。この頃は骨董屋になろうとしていたが、翌年奥津温泉を舞台にした美しい文章の恋愛小説「秋津温泉」を発表し、文壇での評価を得て、1948年に上京して外村の家に下宿しながら本格的に作家活動に入る。新宿で焼け跡闇市派作家として酒と麻雀の放蕩無頼の生活をしつつ、話題作「魔子を待つ間」などを発表するが、肺結核が再発して入院。1950年に2度の大手術で肋骨8本を切除する。この1952年までの入院期期間中にも入院費の捻出と妻子への仕送りのために小説を書き続け、中間小説誌ブームに乗って社会派風俗小説の書き手となる。 1952年、「罪な女」「斧の定九郎」「白い百足虫」で第27回直木賞を受賞〔直木賞候補には過去に、第21回「秋津温泉」、第24回「犬を飼っている夫妻」、第26回「藤十郎狸武勇伝」の3度挙がっている。〕。この頃親友の戸石泰一のつながりで日ソ図書館の文学学校や中央労働学院の講師、また雑誌『文学の友』(旧『人民文学』)の編集委員も勤めた。占領軍による暴行、陵辱事件を扱った「裏切られた女達」を1955年に『小説公園』に連載(後に『みんなが見ている前で』として出版)。また『赤い殺意』『恐喝こそわが人生』などのサスペンス小説、犯罪小説を量産した。1962年、「殿様と口紅」で小説新潮賞受賞。 1970年頃から、『赤い標的』『薄毛の女』などのスパイ小説、『総長への道』『昭和水滸伝』などの仁侠ものを発表。1972年「狼よ、はなやかに翔べ」に始まる、『熊鷹-青空の美しき狩人』などの動物小説などを発表。1977年以降『死にたがる子』『落ちこぼれ家庭』『結婚の資格』など、家庭の問題をテーマとした、社会性の強い作品を手がける。『みんなが見ている前で』『不良外人白書』などのドキュメンタリー風作品、『ろくでなしはろくでなし』、短編集『拳銃の詩』などのハードボイルド小説、『さきに愛ありて』などの教養小説、恋愛小説、『三行人生』『わが国おんな三割安』などのユーモア小説、『天才投手』などのスポーツ小説、『武士道地獄』などの歴史・時代小説、『藤十郎狸武勇伝』『妖怪の人間狩り』などの幻想的な作品もある。「庭にひともと白木蓮」は山田洋次により『馬鹿まるだし』として映画化されて「馬鹿シリーズ」に続き、本作でのエピソードを積み重ねる手法は『男はつらいよ』シリーズにも踏襲された。『わが国おんな三割安』中の作品は、松竹の「喜劇・女シリーズ」として3作が映画化されている。 1950年代から「藤原学校」と呼ばれる勉強会を自宅で開き、三好京三、山田洋次、江國滋、色川武大、高橋治らの後進を育てた。 ライフワークとして『宮本武蔵』の執筆を進める中、1984年に癌で入院し、4ヶ月の入院生活の後に死去。娘の真理は女優藤真利子。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原審爾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|