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藤原 小黒麻呂(ふじわら の おぐろまろ、天平5年(733年) - 延暦13年7月1日(794年7月31日))は、奈良時代の貴族。藤原北家、従五位下・藤原鳥養の次男。官位は正三位・大納言、贈従二位。勲二等。 == 経歴 == 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱の論功によって従五位下・伊勢守に叙せられる。称徳朝では式部少輔・安芸守・中衛少将を歴任する。 宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴い従五位上に昇叙されると、光仁朝では順調に昇進し宝亀9年(778年)従四位上、翌宝亀10年(779年)には参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間、左京大夫・右衛士督や上野国・常陸国などの国司を歴任している。 宝亀11年(780年)伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)が起こると、藤原南家・藤原継縄の後任として持節征東大使に任ぜられ2,000の兵を率いて出兵し、敵の要害を遮断したという。しかしながら、優勢な蝦夷の軍勢の前に大規模な軍事作戦を展開できないまま、翌天応元年(781年)6月征夷部隊を解散、8月に帰京し正三位に叙せられた。 延暦3年(784年)に中納言に昇進。同8年(789年)には、巣伏の戦いで蝦夷の酋長阿弖流為に惨敗した征東大使紀古佐美に対して、藤原継縄とともに敗軍状況に対する追求を行った。延暦9年(790年)に大納言となる。同3年に長岡京、同12年に平安京のそれぞれ造営の相地役を務め、また光仁天皇・高野新笠・藤原旅子・藤原乙牟漏といった桓武天皇近親者の葬儀、喪事にも大きな役割を果たすなど、桓武天皇の政権運営に当たって貢献するところ大であった。 延暦13年(794年)に病を得て、特に正倉院の雑薬を贈られたが、7月1日薨去。享年62。最終官位は大納言正三位中務卿兼皇后宮大夫。没後従二位が追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原小黒麻呂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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