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藤原師賢 : ミニ英和和英辞書
藤原師賢[ふじわら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [し]
 【名詞】 1. (1) teacher 2. master 3. one's mentor 4. (2) the Reverend

藤原師賢 ( リダイレクト:花山院師賢 ) : ウィキペディア日本語版
花山院師賢[かざんいん もろかた]

花山院 師賢(かざんいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿歌人内大臣花山院師信の二男で、母は僧恵一(五辻忠継の子)の女である。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総で没した。
== 経歴 ==

正安4年(1302年)1月にわずか2歳で叙爵徳治元年(1306年)12月に侍従になり、右少将左中将などを経て、正和5年(1316年)11月に従三位、翌文保元年(1317年)12月に参議として公卿に列した。同2年(1318年)2月後醍醐天皇践祚すると、7月には上席参議4人を越えて権中納言に任じられる。当初は父と同じく持明院統に出仕した師賢だが、その母が天皇の母(談天門院)と近い血縁に当たるためか、やがて後醍醐から重用されるようになり、中宮権大夫左衛門督弾正尹などを歴任した。折しも天皇は鎌倉幕府を打倒して朝権を回復せんとの志があり、日野資朝俊基が催した討幕の密議(無礼講)には師賢もその同志として参加している。密議が露見した正中の変後も官途は順調に進み、正中3年(1326年)2月権大納言嘉暦2年(1327年)11月正二位に叙任され、同4年(1329年)6月には大納言に転じた。
元弘元年/元徳3年(1331年)8月元弘の乱が勃発して天皇が京都から逃れるに及び、北長尾の山荘に隠棲していた師賢はこれに供奉して三条河原まで赴いたが、勅命によって天皇の身替りとなり、服装と腰輿を整え、四条隆資らの公卿を従えて比叡山に登った。これを天皇と思った延暦寺衆徒は大いに士気を挙げ、押し寄せる六波羅の幕府軍をよく撃退したので、天皇は追撃を受けずに笠置に潜幸することが可能となったのである。じきにその謀略が露見し、失望した衆徒は離反するに至り、師賢らは密かに山を下って笠置に拠る天皇と合流した。しかし、1か月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日に笠置が陥落し、師賢は天皇に従って敗走するも、その途中で捕捉されて、翌29日に出家を遂げた。法名を素貞という。10月宇治平等院から六波羅に移送され、長井遠江入道の許へ預けられた。翌元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から遠流の処分が伝えられると、翌月中旬に京都を発って下総国に下り、千葉貞胤の家で拘禁の身となるが、10月末に病のため同地で薨去享年32。後年、師賢を愛惜した天皇より太政大臣を追贈され、文貞公と諡された。
二条派の廷臣歌人として、元亨以降の公宴に詠進したが、元弘の乱に際してその感慨を詠じた作品は特に評価が高い。『続千載和歌集』以下の勅撰集に14首、南朝の准勅撰集『新葉和歌集』に49首が採られた他、『臨永和歌集』などの私撰集にも入集する。『二八要抄』の編者ともされ、日記に『師賢卿記』(元応3年2月分のみ現存)がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「花山院師賢」の詳細全文を読む




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