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藤原 師長(ふじわら の もろなが)は、平安時代末期の公卿。従一位太政大臣。妙音院太相国と号す。左大臣藤原頼長の長男。 == 生涯 == 当時の執政である左大臣・頼長の息子であったことに加えて、祖父・忠実の猶子となったことで、早くから伊予権守、右近衛中将などを歴任する。師長の生母と異母弟である兼長・隆長の生母は同じ源師房の曾孫であるが、受領(源信雅)の娘の所生である師長と権中納言(源師俊)の娘の所生である兼長・隆長とは立場的に格差があった。だが、頼長は師長を「大殿」忠実の猶子にして、その後ろ盾によって摂関家の嫡子に相応しい身分を保証した上で、3人の息子を競わせて後継者を選択しようとした〔樋口、2011年、P186-189〕。 仁平元年(1151年)には14歳の若さで参議として公卿に列し、久寿元年(1154年)には権中納言に昇進する。しかし保元元年(1156年)に父の頼長が崇徳上皇と手を結んで保元の乱を起こし敗死したため、連座して師長は官位を剥奪されて土佐国(一説には同国幡多郡)に流罪に処された。配流される直前、養父にあたる祖父・忠実に出家の意思を打ち明けるが、「世の中何が起こるか分からない」と説得されて翻意されたとされる。 長寛2年(1164年)6月に罪を赦されて京都に戻り、閏10月には本位(従二位)に復す。その頃、頼長の所領は没官領とされて後白河法皇の所領となっていたが、法皇は師長をそれらの土地の預所に任じることで彼を側近として取り込もうとした〔例えば、下野国佐野荘は本家が院・預所が師長となり、摂津国大島雀部荘は本家は法皇創建の蓮華王院・預所が師長生母(後に師長が継承)となった。これらの土地は元は藤氏長者である頼長自身が本家であったと推定され、法皇が表面上は師長に父の遺領を返却しつつ実質の支配権を掌握していたことを示している。〕。その後、法皇の後ろ盾により仁安元年(1166年)権大納言、仁安3年(1168年)左近衛大将、安元元年(1175年)内大臣に任じられると、父に仕えていた家司(あるいはその子弟)が師長の元に再び集まるようになり、近衛基実の死後混乱する摂関家を横目に勢力の巻き返しを図るようになる〔帰京後の師長の昇進は9年間の配流生活によって生じたブランクによる加齢を考慮すれば摂関家の嫡子とほぼ同じルートの昇進を遂げている(樋口、2011年、P201-203)。〕。 安元3年(1177年)には左大臣・大炊御門経宗、右大臣・九条兼実を飛び越えて従一位・太政大臣に昇進する。なお、師長が太政大臣になった当時、まだ父・頼長の謀叛の罪は赦免されていなかった〔頼長の赦免は安元3年(1177年)5月。〕。 このため、師長を太政大臣に補任する太政官符の文案作成を命じられた大内記が「其父謀叛人也、其身被罪人也」と主張して、太政官符に必ず記されていた「累代奉公」の4字を記入することを拒否する事件が起きている〔『玉葉』安元3年3月6日条〕。 だが、近衛基通との確執が表面化するに従い、基通を支援する平家との衝突を招き、治承3年(1179年)に平清盛のクーデター(治承三年の政変)が起こると、清盛によって関白・松殿基房とともに解官された上、師長は尾張国に流罪に処された。その後、師長は配地で出家して理覚と号する。3年後に帰京を許されて建久3年(1192年)に55歳で薨去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原師長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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