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藤原 惟憲(ふじわら の これのり、応和3年(963年) - 長元6年3月26日(1033年4月27日)は、平安時代中期の公卿。藤原北家勧修寺流、駿河守・藤原惟孝の長男。官位は正三位・大宰大弐。 == 経歴 == 近江掾を経て、寛和元年(985年)従五位下に叙爵。大蔵大輔・因幡守・甲斐守を歴任し、寛弘4年(1007年)従四位下、寛弘8年(1011年)従四位上、長和2年(1013年)正四位下と一条朝末から三条朝にかけて順調に昇進する。のち、近江守・播磨守と大国の国守を務める一方、藤原道長の家司として信頼が厚く、寛仁元年(1017年)敦良親王(後の後朱雀天皇)が道長の外孫として初めて皇太子に立つと、その春宮亮に任ぜられている。 また、国司として蓄えた財力をもって、京内の一等地である藤原道長の土御門第の西隣に邸宅を構える。長和5年(1016年)自邸から出火し土御門第や法興院など多くの家屋が焼失したが、その再建の造営責任者となる。寛仁2年(1018年)に惟憲の邸宅と同時に再建を完了させるが、土御門第と同じ日に惟憲邸の移徙を行ったことから、世人の不審を買ったという。 治安3年(1023年)従三位・大宰大弐に叙任されて大宰府に赴任し、翌万寿元年(1024年)には赴任の労により正三位に昇叙された。長元2年(1029年)任を終えて帰京した際には、九州一円から集めた数え切れないほどの財宝を随身が携えて帰京したという〔『小右記』長元2年7月11日条〕。 長元6年(1033年)3月26日薨去。享年71。
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