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藤原 敦兼(ふじわら の あつかね)は平安時代後期の貴族。大納言・藤原道綱の孫で左馬頭・藤原敦家の子。官位は正四位下・刑部卿。 == 経歴 == 永長2年(1097年)正月の除目で従五位上の敦兼は若狭守に任ぜられる〔『中右記』永長元年正月29日条〕。在任中の承徳2年(1098年)10月23日源義家とともに院昇殿を聴される〔『中右記』承徳2年10月23日条〕。康和元年(1099年)に入り越後守に転じる。康和5年(1103年)12月30日重任の宣旨が下され引き続き越後守を務めた。令子内親王家の別當を務め、同年12月や長治元年(1104年)には内親王が敦兼の第に方違を行っている。 加賀守在任中の長治2年(1105年)正月従四位上に叙される。その後、但馬守・尾張守・備中守など諸国の受領を歴任した。 天承元年(1131年)鳥羽上皇の鳥羽殿方違に武士が現れ、これに供奉していた敦兼の乗る車が射られるという事件が発生している〔『長秋記』天承元年4月28日条〕。保延4年(1138年)60歳で出家。その後の消息は不明。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原敦兼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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